転封の研究

─日本型の官僚制原理の考察と近世国家像の再構築──

 はしがき


 常時、二百数十という大名家中が存続した近世の二百数十年間を通じて、徳川幕府(=将軍)は主に譜代大名を対象として五百件を超える転封を行った。初期には幕府による強力な大名の統制策の一つであった転封は、中後期になると幕政を推進する日常的な行政転封に質的転換を遂げたのであるが、封建国家の最も基本的な構成単位であった大名の領知移動については、その手順や実態など、正面から分析した研究は極めて少ない。
 本研究の着手に先立つ数年間、入手できた転封史料を校訂・公刊し、法制史学・日本史学上の研究に欠けていた転封の実態と、それが近世の国家像を構築する際に寄与できる問題点について、かなりの部分を明らかにしてきた。この過程で一応、大名を日本型の「家産官僚」と位置づける可能性を見いだしてはいたものの、未だに転封全体を把握したとはいい難い。その理由は、個々の論考を発表するごとに各地から寄せられた多数の史料情報に見る如く、また地方史・誌に収録された関係史料の多くが未精査であったという、史料的な制約によるところが大きかったのである。従って、本研究の背景には、自他ともに認めざるを得ない史料博捜の欠如と、転封に対する認識の欠落があったが、大名の領知移動を追求してきた作業によって、幕藩体制が日本に固有の官僚制国家であったことを論証する、十分な準備が整ったと見なすことが可能となっていた。
 このような状況のもとで、本研究においては、調査の対象を全国規模に拡大し、集中的かつ網羅的に、現時点で有効なあらゆるツールを駆使して、残存する原史料および活字化された史・資料を踏査することを第一の目的とした。第二の目的は、転封という事象を有力な素材として、幕藩制国家が近代的な官僚制国家に移行する直前の形態をとっていた事実を確証しようとするところにあり、第三に、関係史料を集大成してデータベース化し、多様な観点から分析できるように、必要とする研究者に提供することを目的としたのである。
 まず第一の目的とした史料調査については、全国を8ブロック(東北・関東・東京・中部・北陸・近畿・中国・四国・九州)に分けて、原史料および地方史・誌の蒐集を計画。調査を効率的に進めるために、現地ではフルに携帯用パソコンとマイクロ写真撮影用カメラおよびデジタルカメラを活用し、現地滞在を極力短縮するようにした。設備・調査経費とも、科学研究費補助金に負うところが大きく、深甚の謝意を表するものである。
 史料採訪調査は、平成9・10年度の両年にわたって、校務の許す限り均等に実施することができた。両年度を通じて約70日、訪れた藩領でいえば白川・棚倉・山形・佐倉・笠間・古河・下館・岩槻・忍・前橋・高崎・館林・安中・上田・小諸・田中・浜松・掛川・吉田・刈谷・西尾・桑名・淀・亀岡・福知山・篠山・柏原・宮津・舞鶴(田辺)・勝山・津山・高梁・福山・唐津・延岡・中津・日田等で、それぞれの図書館・資料館・博物館等を主な調査対象とした。併せて国立公文書館・国立史料館・東京都立大学付属図書館・学習院大学史料館・京都大学附属図書館・同文学部博物館・同法学部図書館・京都府立総合資料館・京都市歴史資料館・岡山大学附属図書館等、国公私立の諸機関に加えて、各府県で整備の進んできた文書館等を含め、可能な限り広範な現地史料を調査することができたと思う。この結果、地方史誌(資料編)などの刊行物から8千頁にのぼる活字化された史・資料を、それぞれの所蔵機関でマイクロフィルム化された古文書類のプリントおよびフィルム複製、それらに自己撮影分の史料を加えると、優に10万コマを超える文書史料を蒐集・蓄積したことになる。この間、古文書の撮影機材として新たにデジタルカメラを試用し、史料採訪に際して大幅な戦力アップになることが確認できたのも、研究手法のデジタル化の一例として付け加えておきたい。
 第二の目的であった史料の整理・分析についても、両年度を通じて作業を継続した。ただし、当初予測したボリュームをはるかに上回る史料の蒐集が実現した反射現象として、研究期間内にこの作業が完全に終了したとはいえない状況にある。その一部は、本報告書の第一部(転封の研究)および第二部(史料編)に収録したが、従前から危惧していたように出版による通常の公表形態では処理が全うできず、文書の適格性を吟味した上で、イメージファイルとして公表する必要にも迫られることになった。
 それは、とりもなおさず本研究が設定した第三の目的の一つでもあった、電子情報としての「転封史料データベース」を構成するデジタル・コンテンツの公開につながるものである。すなわちインターネットを含む各種ネットワーク上で逐次、転封史料を提供する環境が整ったことを意味するのである。平成10年度の作業の重点がデジタルファイルの作成と保存にシフトしたのは、このためである。本報告書の第三部(データ編)に収録した各種のデータは、目下考慮中の電子情報のあり方を、(1)文字情報としての転封史料データベース、(2)イメージ(写真・画像)情報としての転封史料とし、それぞれをサンプルとして示したものである。従って、両者を有機的にリンクさせて文字・イメージを混在させたデータベースとし、(c)(d)−ROMあるいはサーバによる史料情報の提供が、至近の課題として本研究の延長線上に位置することになる。当然、第二部(史料編)所収の転封史料が夙にデジタルファイル化されており、構築予定のデータベースに格納されることは、いうまでもない。
 このように史料の調査と蒐集を端緒とする本研究は、関係史料の存在ないし伝存の形態を辿るだけでも近世社会の構造を論ずる可能性を秘めていた。叙上の如く、尨大さの故にまだ分析が完了していない憾みを残すが、本報告書第一部(第一章)で触れるように、転封史料の存在形態、官僚型大名の経験した領知移動の具体相、移動の前後における領知のシステムと法について言及し、幕藩官僚たる大名家中の特質を論じることができた。すなわち大名を将軍の家産官僚と位置づけ、幕藩制国家の構成原理を新たな発想から剔出する手掛かりを得たのである。また同第一部(第二・三章)・第二部で、家産官僚のモデルとなり得る二つの家中の残した松平乗邑文書・越智松平家記録を解説・公表できたのも、本研究の成果である。
 とりわけ、越智松平家記録の分析からは、官僚型大名の創出と家中の形成過程を通じて日本型組織の源流を辿るという、次なる研究テーマについての方向性を得た感触がある。新しく万石以上の封地を与えられた新封大名が、ごく少人数の従者の集団を肥大化させて家臣団を創出し、ついには数百人規模からなる家中を形成して領知という役務を遂行するプロセス──そこに日本的な組織原理を求め得ると思うからである。
 以上述べてきたように、両年度の計画として意図した研究目的は、核心部分において概ね達成できたと考える。しかしながら、経費と時間の制約もあって、踏査したのは70前後の大名家中に留まり、所在確認のみで終わった少なからぬ文書群が未蒐集の状態で残されている。もちろん解明できた幕藩官僚制原理と国家像の枠組みに大きな修正を加える必要はないと確信するが、処理を終えていない蒐集史料の分析と併せて、今後とも転封史料の探索を継続し、データベースの充実を図りたい。
 終わりに、貴重な所蔵史料の閲覧と撮影、就中デュープフィルムの作成等、特別の便宜を供された関係機関および担当の方々に対し、尽きせぬ感謝の念を表する次第である。


第一部 転封の研究


はじめに


 近世の国家像に関わる法制史学上の分析については、従来、主に幕府法・藩法という観点から、幾多の重厚な研究が積み重ねられてきた。しかし、国家の体制ないし構造という視点は、形成された将軍権力の段階的な展開にせよ、大名の家中構造の分析にせよ、結局のところは日本史学でいう幕藩体制論に依拠し、また集束することが多いのが現状だといって差し支えないと思われる。それらの分野においても、いわゆる封建国家の基本的な構成単位であった大名の領知移動、すなわち転封に関しては、体制的に確立していく幕藩制国家を政治史的に段階づける手段として追求され、幕府による大名統制策という位置づけに留まっていた憾みがある。従って、個々の転封を生起させた政治的背景の追求はともかく、近世国家が確立したと考えられる以後の転封については、領知移動の実態そのものを直接の分析対象とし、そのプロセスを通じて近世国家の構造に言及した研究は、さほど多くないといわなければならない。
 本研究は、これまで正面から取り組まれてこなかった転封史料を博捜し、それらを通じて、法制史学・日本史学上の分析に欠けるところの少なくなかった、転封の実態を明らかにしようとするものである。大名家中が現実の支配領域を他に移す際、いかなる手順が必要とされ、どのような推移があったかを追求してみると、自ずと領知の本質を垣間見ることができるであろうし、法権ないし法圏の移動を辿れば、家法に根ざした領知法の基本的な性格が確認されるであろう。このような視点は、封地を渡りあるく大名が幕藩体制の枠組みのなかで占めた位置づけを浮き彫りにすることになり、さらに、単に封建社会における「家産官僚」の実像を描くだけでなく、近世国家を維持した官僚制とその構成原理を剔出し、分権と集権を基軸とする国家像に何らかの具体性をもたせることができるのではないか。
 右のような想定をもとに、本報告書では、調査し得た転封史料を紹介し、転封の実態を明らかにしようと思う。その過程で、引渡と請取の対象となる大名家中の「家産」の中身が具体化されるであろうが、転封記録とは正しく家産を文書化した部分を含むものであったこと、「城邑」という言葉で文字通りの家産内容が表現されるとするならば、それらの請取渡のプロセスには近世社会の構図が凝縮されていること、さらに、幕藩体制下の官僚制とその構成原理が近代官僚制への連続性を内包することを確認できれば幸いである。
 以下は、本研究に着手する以前に行った分析を含め、転封史料を素材として近世の国家像という観点から若干の総括を念頭において、法と国制の史的考察に向けた趣旨を踏まえた作業の一端である。


第一章 近世の領知法と家産官僚

1 転封史料の存在

 従前から筆者の手もとには、活字化されたものを含めてフィルムやコピーの形で次のような史料があった。数家を数えるにすぎないが、何れも大名家中が遭遇した、ある年の転封を包括的に記録したもので、ボリュームの大小や記事の濃淡は認められても、領知の交替にまつわる実務記録という点では共通の性格に彩られている。

(a) 従亀山松山江 御所替執計帳 穐 (内題「宝暦五年春改 御所替之節渡方諸事心得覚帳 奉行役」)
(b) 従亀山松山江 御所替執計帳 冬 (内題「延享元年子三月より六月迄 奉行方留従亀山松山江 御所替之節引渡方覚帳写」)
(c) 宝暦五年亥春改 御所替之節請取方諸事心得覚帳 奉行役  
(d) 延享元甲子年 御所替諸事記  春  
(e) 延享元子年三月 備中松山@勢州亀山へ 御所替之覚帳  
(f) 延享元甲子年 松山ヨリ亀山江 御所替一巻
足軽中間人割帳           
(亀山城請取関係史料)
(g) 文化一四年 水野左近将監様・小笠原主殿頭様  御交代諸雑記 (九州文化史研究所蔵「名古屋松尾文書」)
(h) 文政六癸未年三月 御国替一件 (伊勢国桑名への入封記録)
(i) 天保七申年三月より 石見国浜田所替ニ付  陸奥国棚倉城請取一件  
(j) 天保七申年三月より 陸奥国棚倉江所替ニ付 石見国浜田城引渡帳  
(k) 天保七年申三月十三日 御所替御達追々扣之 (浜田への入封記録)
(l) (安政二)慶応二年 前橋・白川・棚倉   所替等留  

 右のうち、(a)〜(f)は延享元年(一七四四)に行われた、伊勢国亀山(現三重県亀山市、現在地名は城郭の所在地、以下同じ)城主板倉勝澄と備中国松山(現岡山県高梁市)城主石川総慶の交換転封の記録で、(a)〜(d)が板倉家所伝文書(高梁市立図書館蔵)、(e)(f)が石川家所伝文書(加藤家文書、亀山市立図書館蔵)である。標題(内題)の示す通り、(a)(b)は板倉家中にとって旧領となった亀山城邑の引渡記録であり、(c)は初めて入封した松山の請取記録である。何れも転封実務の詳細を留めたものであるが、宝暦五年(一七五五)という年代の付された(a)(c)は、転封からほぼ一〇年を経て往時の記録を改訂、すなわち編集し直す家中が存在した事実を示している。このような引渡と請取を分けた一件記録に加えて、両者を合体させる形で、新旧両領地における転封実務が同時に進行する経過をまとめた(d)を併せると、延享四年の板倉家中は、ほとんど完全に近い領知移動の記録を残したのである。
 (e)(f)は、同家中と交代して亀山に入封した石川家中の記録で、転封時における家中諸士の役割を表す記事を中心とする。処理した実務の全体を包括的に書き留めたものではないので、これだけでは領知移動の実態を把握するに足らないが、両家中の記録を照合して初めて、交換転封の実態と全ての過程を再現することを可能ならしめている。
 (g)は文化一四年(一八一七)、肥前国唐津(現佐賀県唐津市)城主水野忠邦・陸奥国棚倉(現福島県東白川郡棚倉町)城主小笠原長昌・遠江国浜松(現静岡県浜松市)城主井上正甫の間で行われた三方領知替に際し、唐津城の引渡と請取の当事者となった水野・小笠原両家中の交替を記録したものである。
 (h)は文政六年(一八二三)の陸奥国白川(現福島県白河市)城主松平(久松)定永・武蔵国忍(現埼玉県行田市)城主阿部正権・伊勢国桑名(現三重県桑名市)城主松平(奥平)忠尭が当事者となった三方領知替が行われたとき、松平(久松)家中で作成された転封の一件記録である(桑名市教育委員会刊)。
 (i)(j)は天保七年(一八三六)に行われた、石見国浜田(現島根県浜田市)城主松平(松井)康爵・陸奥国棚倉城主井上正春・上野国館林(現群馬県館林市)城主松平(越智)斉厚による三方領知替において、浜田から棚倉へ移封した松井松平家中の記録である(国立公文書館蔵)。大部の一件記録は、館林へ移封した井上家中との間で行われた棚倉城邑の請取と、館林より入封した松平(越智)家中への浜田城引渡に関わる処理事項について、転封後のある段階で日付順に個々の文書を配列・編纂したものである。家中間で交わされた文書・手紙・問答書はもとより、請取・引渡を指揮するために幕府から派遣された上使の言動や応接の記録が収められ、錯綜した観を呈しながらも、全体としては日次記の体裁をなす。次第に定型化した作法の色彩を帯びつつあった転封実務の推移について、個々の文書(控)を配列することによって細大もらさず記録したものといえよう。なお(k)は、このとき浜田に入封した越智松平家中の一家臣が家中の引越に的を当てて、藩庁からの通達類を書き留めたもので、必ずしも転封の全体を把握できる史料とはいえない。これまで数少ないと考えてきた同家中の記録として掲げておくが、第二部(史料編)で紹介する同家の転封記録を収録できたことは、本研究の大きな成果である。
 (l)は大政奉還の直前、慶応二年(一八六六)に譜代大名三家中と四つの領分を巻き込むことになった転封の記録である。六月に発令された陸奥国棚倉城主松平(松井)康英(康直とも称す)と同国白川城主阿部正静(当時は長吉郎)の交換転封の遅れから、同年一〇月、松平康英をさらに武蔵国川越(現埼玉県川越市)へ移すことになったため、川越城主の松平(越前)直克を上野国前橋(明和四年以来廃城、現群馬県前橋市)へ移封した。三つの家中によって展開された、松井松平家中以外には不本意で慌ただしいまでの領知移動のプロセスが、大部の一冊にまとめられている(国立公文書館蔵、現表紙に安政二年と標記するのは慶応二年の誤りと思われる)。
 ところで、(i)(j)の当事者でもあった松井松平家中は、勘定奉行(勝手掛)・大目付・江戸町奉行を歴任した当主康英が寺社奉行を経て、慶応元年より老中の席にあった。阿部家中でも、先代正外が元治元年(一八六四)老中に就任、神戸港の開港を主張したため勅命によって謹慎蟄居させられ、懲罰転封の体裁をとって嗣子正静を棚倉へ移封させたのである。しかし結局は、旧領民の慰留騒動をも援用した再三の嘆願と、白川が「奥羽咽喉要衝之場所」と認識されていたことから、慶応三年二月、二本松城主丹羽長国の預かりとなっていた旧領への還封を果たしている。さらに越前松平家中には、内海の警備や将軍(一四代家茂)上洛中の江戸城を警衛し、関東の要衝であった前橋城の再築に力を尽くすなか、当主直克は文久三年(一八六三)政事総裁職に就任したが、翌元治元年、横浜の鎖港をめぐって罷免にいたるという経緯があった。このように見てくると(l)は、開港問題や海岸警備、関東・奥羽の尊皇攘夷運動など、幕末の緊迫した政治情勢と政策の立案を反映した、幕閣を構成する立場にあった三つの大名家中の配置転換の記録であったと見なせるのである。

 以上、やや煩雑ながら、これまで考察の対象とした転封の記録を辿ってきた。ここでは比較的よくまとまった一〇例余りを採りあげたが、近世を通じて大名家中の領知移動に関わる史料は、探索の範囲を広げれば広げるほど、質量ともに多様かつ厖大となる。本研究では、「御用日記」など藩庁で編纂された記録や、地域史に収録された転封史料にも調査の力点を置いたが、その結果、第三部(データ編)に示す多量の蒐集成果を得た。これらに史料的な位置づけを与えるためにも、転封関連史料の存在形態を整理してみると、概ね次の四類型を想定することが可能だと思われる。
(1)複合的転封記録 
 (l)のごとく、複数関係家中の内部および家中間で発信・受信された文書群と、それらに加えて、上使・代官・勘定方など、幕府の関係セクションの記録を含むもの。江戸と領分という家中の枠を超えた文書の集合体であることから、当然、それらの全てを把握して編成した主体が大名家中とは考えられない(拙稿「転封史料の存在形態1 ─複合的転封記録の存在 ─」、『名城法学』四二ー三、平成五年)。
(2)転封の一件記録
 転封の当事者となった一家中の記録で、lを除く右掲史料の大部分。城邑の引渡・請取と家中の引越に関わる文書を編成した性格をもつ。大名の家中機構で作成されたものが多いが、(h)(k)のように一家臣の手になるものも見受けられる。また(i)(j)についても、記事の中身を精査してみると、編成の主体が松井松平家中とは断定しきれず、幕府の機構が関与したことを想像させる部分もある(拙稿「転封史料の存在形態(2) ─一件記録と周辺史料 ─」、『名城法学』四三ー三、平成五年)。
(3)家中の「御用日記」など藩政の記録
 (1)(2)が、一ないし複数の大名家中の、ある時点における転封を対象とした、ある程度まとまった記録であるのに対し、藩政記録一般に、大名にとっては重大事であった領知移動が投影されることは当然であり、諸家中の記録中には転封の年次を別編としたものも少なくない。それほどの独立性をもたないまでも、日次を逐って藩政日記から抽出すれば、(2)と同様、転封の一件記録を構成することは可能である。
(4)断片史料の存在
 また、近世社会の基本的な構成要素である領民からすれば、あるいは領域の時系列的な遷り変わりを辿る観点からすれば、大名家中はある期間の領主という認識がむしろ当たり前である。従って、編集物を含む厖大な藩政史料には、城主の変遷に視点をおいた領域ごとの記録も多く、後世において各地で編纂される県史・市町村史もその一種であるといえよう。本研究で地域史の渉猟に重点をおいた所以であるが、断片的な記事を含めた転封記録の地平線には無限に近いものがある(一例として拙稿「板倉家の法令 ─家法と(亀山藩)領知の法 ─」、『名城法学』四一巻別冊、平成三年)。

 このように転封の関係史料を類型化してみると、一方において、大名家中がいくつかの領分を転々としつつ、家中とともに持ち歩いた数少ない記録があり、他方において、固定した空間(領域)を通過したいくつかの大名家中が、その領知期間に残した藩政の史料があるという、当然の認識を得るであろう。やや飛躍するが、これらを領知の法の記録になぞらえるならば、家中に固有の、転封にともなって持ち込まれ、また持ち去られた家法の部分と、それらを含んで領域に定着した領域法の部分に峻別できるように──。
 蛇足ながら、前者の残存量が少なく、欠如・滅失が劇しいのは、家中の移動の間に、また、大多数を徳川譜代の大名とするが故に、幕末混乱の時期に紛失・焼失したという物理的かつ常識的な理由を挙げることができる。さらに、転封に際して「反古帳面書物、火中ゐたし候」((h)所掲文政六年「御国替一件」に見える「大殿様自筆」)という文言から推測されるように、当事者が意図的に廃棄する場合があり、もともとその種の記録を作成しなかった家中があったことも考慮しておく必要性はあろう。


2 転封の時空と幕藩体制

 江戸時代の二百数十年という時間を通じて、二百数十に分かれた空間を横断する形で、数百件の転封が行われたことに想いを致せば、前節で取りあげた個別の転封史料は、全体の数パーセントにも満たないごく一部の事例を表現する素材にすぎない。しかし、煩雑さをも顧みず、領知を移動した城主名に現在地名を添えながら、僅かばかりの転封史料を概観したのは、これらが正しく″転封の時空″そのものを表現すると思われるからである。また、ごく限られた事例ではあっても、分析の手法によってはかなり広範な大名家中の移動の状況、とりわけ移封・入封時に要した実務的な処理の実態が判明するからでもある。さらに転封史料の類別、すなわち史料の存在形態を念頭に置いて、網羅的に大名家中の文書類を調査すれば、飛躍的に多量の転封史料を確認できる筈であり、本研究は、それらのデータベース化をも意図していたからである。
 例えば、(i)(j)(k)の示す天保七年の三方領知替の場合、当事者となった松井松平家・井上家・越智松平家にはそれぞれ、この転封を迎えるまでに何回かの城主の(世代)交替と領分移動の歴史があり、以後においてもこの時点における入封地に定着することはなかった。二六〇年余の時間の流れと、陸奥国から石見国までをカバーする三つの家中の移動範囲を″転封のミニ時空″というならば(拙稿「近世の家産官僚─譜代大名の転封を素材として─」)、これらの連なりと重なりが幕藩体制下における転封の空間を形づくっていたといえるであろう。そして、このような観点から転封を捉えようとする立場は、単純化すれば城主と領知の変遷とのみ見られる転封を、近世国家としての幕藩体制下における<ある種の>大名の存在の態様と、彼らが保有した領知権の本質を読みとる目的をもっている。
 叙述が逆になったが、一般に所替・国替または領知替などとよばれた転封(移封)は、大名家中の配置替えによる領知移動を意味し、厳密な意味では豊臣秀吉の天正一一年(一五八三)に始まる。賎ヶ岳の戦で柴田勝家を破った秀吉が、織田信長の制覇した領国に対する支配権を獲得し、信長麾下の武将の領有地を移動させて、全国を平定する過程で豊臣大名を要衝に転封・配置したことは周知の事実である。小田原征伐が終了した同一八年、徳川家康を関東に移したのを筆頭に、旧族大名の配置換えを実施したが、秀吉の没後二年にして慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦が勃発。戦後処理の形で家康は外様大名に対する改易とともに大規模な転封を行い、関東・東海・東山地方とその周辺の諸国に自らの一門(親藩)や譜代大名を配して、徳川氏を基軸とする新しい領国の体制をつくりあげた。さらに元和元年(一六一五)、豊臣氏を滅亡させた大坂の陣の後は、畿内を掌中に収めて大坂および周辺諸国に譜代大名を配し、続く二代将軍秀忠も譜代大名を大坂周辺に集中させ、改易によって空白地となった地域を徳川一門や譜代大名の領分とした。元和年間をピークとして譜代・外様大名を盛んに転封させた結果、出羽・播磨・和泉・紀伊・備後・豊後などの諸国に新しく徳川一門・譜代大名が置かれ、この時点で豊臣氏時代以来の大名配置は大きく変わったのである。三代将軍家光の時代になると、中国・四国・九州にまで大名の転封を拡大・強行し、出雲・石見・伊予・讃岐・豊前・肥前などの辺境地帯にも新しく一門および譜代大名が配置されたので、寛永期(一六二四〜四四)には徳川氏系大名の領分はほぼ全国に拡大し、ここに徳川氏を中心とする新しい領国体制が完成することになった。
 このように家康・秀忠・家光という三代の将軍に個別の特性と合わせて、他に例を見ない頻繁な転封が行われたが、これらは確立期の徳川幕府による強力な大名統制策の一つであった。それ故、転封に関する研究の基調は、将軍権力の伸長と、その発現の形を分析するところにあったといえよう。当然、転封によって兵農分離が促進される一方で、戦国大名とその家臣団が歴史的に築き上げてきた本来的な領分との古い支配関係が断ち切られ、それによって将軍を軍事的・政治的な権力の頂点とする幕藩制国家を確立させるのに重要な役割を果たしたとの認識が強い。
 しかし、転封を別の観点から見れば、文字通り領域大名であった戦国武将が幕藩制下の大名家中に組み換えられ、ともに武力を存立の基盤とした将軍(=幕府)と大名の関係が、大公儀と公儀という近世的な、ある意味では日本型といえる官僚制に変質していったと見なすことも可能であろう(拙稿「貴族・家職・官僚制─法と社会に見る─」(村井康彦編『比較文明史 公家と武家』所収、思文閣出版、平成七年)。ことに外様大名の転封が減少した寛永期以後も、譜代大名の所替が減少したわけではなく、領分に対する苛政や農民一揆、あるいは家中の紊乱などを理由に行われた懲罰転封は、官僚制的な組織社会における一種の左遷になぞらえることができるからである。また大名本人の幕府機構における役職就任や退任、あるいは要地の守衛など、幕政執行の必要から行われた行政的な転封も多く、これらは領分=封土という要素に彩られてさえいなければ、単なる人事移動ないし転任に譬えられるであろう。加えて他家中の移動の巻き添えという、正当な理由の見あたらない転封など、当否こもごもの事由を契機とした転封が、幕末にいたるまで数多く行われた事実がある。交換転封または三方領知替の形式をとりながら、このように特定の譜代大名の領分を移動させたのは、むき出しの権力作用とはすでに別次元に属する現象だといわなければならない。
 この点では、江戸時代の初期段階において、政策としての転封が将軍権力ないし幕藩体制の展開のなかで位置づけられてきたのに対し、中期以降の転封には別の意味づけが必要となることを示している。いうまでもなく、そこには封建社会を成り立たせる思想的な背景が密接に関連し、ひいては幕藩体制下の大名家中のありかたに、<日本型>官僚制の枠組みを嵌めることになるであろう。その原理に言及する前に、ここでは近世中後期の転封の特性を見ておこう。
 近世を通じて、一つの家中で一〇に余る領分を転々とした″転封大名″の例は少なくない。特定の譜代大名に典型的な、いわゆる「鉢植え大名」の領知移動は実に繁劇であり、彼らにとって存在の基盤となる領分は将軍からの預かり物───というより、預かり物ですらなく、領分の移動の実際をみれば、単に管理すべきものでしかなかったことが判明するであろう。もっとも、領分に対するこのような受けとめ方は、譜代大名にのみ特有のものではなく、また近世中期以降に限るものでもない。例えば元和五年、安芸国広島に入封した浅野長晟(外様)には、家屋敷や建具にいたるまで城郭の全ては公儀のものという意識があり、命じた通りに整理すべきことを指示しているし、名だたる外様大名であった藤堂家中の法令にすら、「殿様ハ当分ノ御国主、田畑ハ公儀ノ田畑」という認識がいきわたっていた(青野春水『大名と領民』<教育社歴史新書、昭和五八年>所引の元和五年七月一八日浅野長晟書状および藤堂藩の法令。また同書には、池田光政が家臣へ与えた「上様ハ日本国中ノ人民ヲ天より預かり成され候、国主ハ一国の人民を上様より預かり奉る」という教諭が引かれている)。ここには、大名の領分が城・邑ともに将軍からの預かり物であり、大名を将軍の官僚として位置づける思想、すなわち、幕藩体制を成り立たせた当時の思想的基盤が如実に窺われるといえよう。このように、近世初頭にいたるまで、戦国期を経て歴史的に形成されてきた領域大名の土着性や領民との結びつきを希薄化させて、大名を公儀の田畑・領民を預かる立場に転ずるという意識こそが、かくも頻繁な転封を可能ならしめたのである。
 それでは、将軍=幕府が専権的に行う大名の領知替を、近世の社会はどのように捉えていたのであろうか。江戸中期の儒学者で、幕政の諮問にも答えた荻生徂徠は、藩財政の窮乏を緩和するためにも、武家は本来の知行地に居住するべきであり、その物入りが「凡十年ノ痛トナル」ような所替は、咎めをうけた場合を除いて廃止すべきことを主張している(『政談』巻之一「改武家旅宿之境界」)。また、後期の朱子学者で、松平定信の諮問を受けて『草茅危言』を著した中井竹山は、祖先の墳墓を捨てざるを得ず、領民との関係を希薄にさせるような国替は、王道論が要求する道理に悖る政策だと考えている(巻之二「国替の事」、浪江健夫「転封の思想と実例」、『白山史学』二八、平成四年。以下の叙述は同論文に依るところが大きい)。ともに幕政推進の中核部からは一歩離れた、儒学的立場であったとはいえ、率直に転封の廃止を献言していたことに注目しておこう。
 一方、領知を移動する当事者となった大名家中の対応はどうであったか。一言でいえば、幕府の方針に唯々諾々と従いながらも、現実的な利害得失を比較考量する態度が明らかである。なかには、宝永七年(一七一〇)の酒井氏(前橋城主忠挙、父は老中を失脚した忠清)のように、

兼而申上候通(略)何とソ所代被 仰付候様ニ仕度奉念願候、然共未若輩之儀ニ候得は、場所結構成地江は曽而願無御座候、石川主殿頭殿(淀城主)・青山播磨守殿(尼崎城主)気分重有之候由、万一死去被申候ハヽ、淀・尼崎は御要界之地之由下々申候間、若年之衆は被差置間鋪候哉、左候ハヽ所替等有之候ハヽ、左様之節、三重代抔ニ被仰付候様ニ仕度候、内々被掛御心可被下候(略)

という嘆願書(前掲浪江論文所引「宝永七年閏八月二四日 老中方江窺之留」(『群馬県史』資料編14近世6所収、昭和六一年、群馬県)を老中に提出し、他家の当主の死までを予測して積極的な領知替の運動を展開した家中もあった。旗本の知行地が入り組んだ領分の構造や利根川の頻繁な洪水など、藩政上の支障を嘆願の主な理由とするが、同家が忠恭の代になって播磨国姫路への転封を果たしたのは寛延二年(一七四九)のことであった。右の窺書は、要衝の地を預かる家中において、幼少の者が襲封すれば所替になるという慣例が広くいきわたっていたことを示して興味深い。しかしながら、転封が江戸近辺からの左遷を意味し、あるいは莫大な費用を要すること、また、新たな入封地における領民への対応策や財政の見通しが未知数であることなど、一般的には転封を悲観的に受けとめる家中が多かったと見なすことができるようである。
 以上、述べてきたのは、幕藩体制や封建思想の問題として転封を位置づけ、また意味づけた研究の成果を、二三の視点から垣間みたものである。これらと平行して、領知の主であった大名家中の転封の理由や状況にも関連する、個別領知の政治史的な分析は、地方史叙述の一節を構成するものを含めば、枚挙にいとまがない。そこで最後に、数ある藩政史的なアプローチのうち、領知の対象となる領民の動向という切り口から、転封そのものを主題とした藩政の分析について触れておこう。遺憾ながら、その数はごく限られているのではあるが。
 大名家中にとって一大事であった所替が、土地を動くことのない領民にとっても重大事であったことは想像に難くない。転封に遭遇した領分において、城主の交替に対する領民の受けとめ方には、大名その人の領知に臨む姿勢以上に様々なスタイルが見受けられる。それらは前後の領主に対する自発的あるいは義務的<儀礼的>な対応に示される(拙稿「転封と儀礼─権力の表現形態─(1)」、『名城法学』四四ー四、平成七年)ことが多いが、場合によっては、移封することになった前領主の行った仁政や恩恵を理由として、残留と永住を望む嘆願書として表面化することも珍しくはなかった。大部分は、極めて淡々と城主の移動に接したようであるが、なかには最も強烈かつ劇的に転封反対一揆を惹起するような領民の反応もあった。その故は、家中の移動に要する経費が入封後の収納に委ねられることが多く、また、旧領における財政難を引きずってくる危惧もあり、結局のところ、貢租の増徴を恐れる領民の動揺を来たして、転封反対一揆に結実することもあった(宮崎克則「藩主の転封と領民動揺をめぐる問題─肥前唐津藩その他を素材として─」、『日本歴史』四四七、昭和六〇年)のである。その際、所替を予期させるような、大名が幕府の役職に就任する段階で反対の動きを示すほどに、領民は家中の意図に敏感であったことも付け加えておこう。


3 幕藩体制下の大名


 転封史料を素材として″転封の空間″を俯瞰する場合、個々の大名の領知法すなわち藩法が、大名家中の領分とする土地と人に対する支配の法と、峻別するならば家中に対する法の領域を併せて、個別の法圏を構成したことに特別の異論はないであろう。しかし、両様の法の主体である大名そのものを──大名の家臣団ではなく──「家産官僚」と称する場合は、その当否はもとより、用語のもつ意味内容についても、基本的な合意を得ておく必要がある。端的にいえば、前節で述べたナイーブな家産が誰に所属し、大名が誰の官僚であったかを明確にしなければならないからである。
 そもそも家産制とは、M・ウェーバーのいう伝統的支配の一類型(M・ウェーバー「支配の社会学」、『経済と社会』第九章、世良晃志郎訳、創文社、昭和三七年)であり、本来は私的であった筈の家政が公的な政治的支配の方式に転じたものといわれてきた。この概念を幕藩体制に当てはめて、大名を家産(制)官僚と規定するためには、大名を将軍=君主の私的財産の管理幹部に該当させ、大名が将軍のナイーブな家産、すなわち徳川領国の管理に任じる、極めて従属性の高い官僚的存在であったと見なさなければならないであろう。決して不可能な見方ではないと思われるが、その際に障害となるのが、将軍の判物等によって認められる必要があったとはいえ、大名に備わる、換言すれば、大名を大名たらしめている固有の包括的な領知権である。中世から戦国時代を生きのびて、家中の組織と城邑を歴史的に形成し、あるいは、それに相当する領知の主として公法的な権限を付与された大名の立場は、単なる官僚のそれとは全く異なるからである。従って、ここでは文字通りの意味で、自らの家産と領知権をもって幕府の機構に連なり、官僚的職務をも果たす大名の存在形態を、近世における家産官僚と表現しておきたいのである。いまだ熟していない大きな論点のみならず、定義上の難点を含むことをも承知した上で、あえてこの用語を使用したのは、これまで見てきた転封実務に幕藩制国家の一側面が凝縮しており、言葉の素朴な意味において、転封を繰り返す大名を家産官僚と規定するのが、あながちに不当だとは思われないからである。本節では、その所以を探るためにも、近世社会の枠組みと関連させて、大名の存在形態に若干の考察を試みてみたい。
 図式的に見れば、将軍・大名・庶民と、幕府および大名・旗本の任であった各種の役職者は、機構的に位置づけられた近世社会の構成要素である。それらを法の世界に置いた場合、それぞれが単方向または双方向の関わりをもつ、法の主体と客体として把握することが可能であろうが、ここでは領知と統轄という権力作用を示す上下の線で結んでおこう。 このうち、大名についていえば、家中の機構と町および郷村からなる自らの法圏に対して、包括的な領知権者であることを最も基本的な存在の態様とする。その点では、将軍も一大名としての側面をもち、逆に、ある種の大名が将軍に類似する性格を備えることもあった。固有の領域を動くことなく、自律的に独自の領知を続け、家産の引渡や請取を要しなかった大名家中の場合、戦国末期の展開によっては幕府の主にもなり得た可能性がある。これを″将軍型″大名と称するならば、幕命に従って転封を重ねる″官僚型″大名にとっては、不特定の期間、「知行割」によって与えられた領分の収納を行うことが領知であり、実質または儀礼の職として恒常的に幕府機構の役職を担ったと考えられよう。譜代大名の場合、その多くは、領知権者であると同時に幕府機構の構成員、つまり幕府の諸機能を分担する、いわば官僚的な存在として位置づけることが可能である。具体的には、幕閣を構成する大老・老中を筆頭として、若年寄・寺社奉行・京都所司代・大坂城代など、中央・地方に配置された幕府の要職に就任し、また、江戸城内における奏者番などの役務に従事するのが通例であったのである。その点で、幕府直轄領の民政にあたる代官・郡代や遠国奉行などが、地方機構として幕府に直属する役職であったこととパラレルな関係にあるといえよう。
 但し、大名による領知が、あたかも幕府の地方官の職務と同等視される段階になると、あるいは譜代大名の多くが当初からそのような立場にあったことを想定すると、両者の相違は、法権者としての全面的かつ世襲原理に基づく領知権と、比較的狭小な手限り権および幕府による任免という、相対的なものに化してしまうであろう。いうまでもなく、代官の任免や転任と大名の転封を同次元で考えることはできないが、領民の立場からしても、歴代代官と領主であった大名家中の変遷に、さしたる意識の差異は認め難いようである。勿論、刑罰権や立法権など、両者の間に横たわる権限に基本的な差異があることは事実である。また、大名の領知移動に際しては、幕府に直結する代官が大名の、いわば上位に立って、郷村の請取渡を指揮したことを無視するつもりもない。しかし、近世の平時において、ともに日常的に携わった地方(じかた) という業務に焦点を絞れば、大名と代官を二系統の管理幹部とする、総体的な幕府官僚制を想定することも不可能ではないであろう。
 とりわけ、頻繁に転封を重ねた譜代大名の場合、彼らは地方官としての機能と、ときには幕府中枢を構成する機能を併せもち、ともに官僚的存在として位置づけられる職務を遂行していた。とはいえ彼らは、決して大名に固有かつ世襲の領知権を放棄していたのではなく、それは逆に、彼らをして幕府の官僚たらしめる必要条件であった。この点で、大名と同様に世襲の家祿または知行地を保有はしたものの、領域支配者としての性格が希薄な旗本の任であった代官とは、本質的に異なるというべきであろう。このように、ある種の大名が備えた二重の性格ないし職務は、戦国時代に遡ることも可能な独立した法圏の主を、幕府=将軍が獲得した統括権に基づいて、全国的な統治機構へ組み込む過程で進んだ<日本型の>官僚化現象の帰結であった。従って、城・邑ともに、大名家中の′時間と空間を限った領知′の対象(物)でしかなかったことを明白に示す転封は、ある意味で戦国時代的な私領を近世的な公領へ転化する現象であり、別の意味では封建制と官僚制という、一見、相反するかに見える社会の枠組みを整合させる政策であったのである。
もともと大名は、私領という認識のもとに実体としての領地を形成し、世襲原理に基づいて城邑を保有することで自らの「家」を存続させてきた。そのために、家臣団を動員して軍事行動を起こし、家中の機構を編成して包括的な領知権、すなわち司法・行政・立法の全面にわたる権限を行使したのである。その際、自らの″ミニ王国″そのものが、M・ウェーバーのいう家産制支配の′場′になると同時に、将軍の統轄権のもとに組み込まれた大名は、その命令によって自らの′場′を移転し、また、領知以外の機能を果たすべく宿命づけられた存在でもあった。その結果、大名はより高次の″<将軍の>王国″の支配システム(=官僚制)に連なることになり、ここに近世の家産官僚ともいい得る概念を混乱させる一因があると思う。このように考えてくると、幕藩体制を官僚制という観点から再構成しようとする場合、大名固有の領知を移動させる転封は、極めてドラスティックな素材を提供しているといえないであろうか。
 さて、本節では、家中に固有であったと見なし得る城邑に由来し、将軍に付与または安堵された「家産」を基盤とする譜代大名を、幕藩制下の家産官僚として把握する立場から論を進めてきた。本来的には大名の私有に帰した筈の家産は、転封時の請取渡が示すように、その全てが文書化され、将軍の命によって他者の家産に変更され得る性格をもっていた。それ故、文書によって請取渡の行われる個々の家産には、観念的に将軍すなわち主君の家産であった側面を認めなければならないであろう。しかし他面において、転封の前後を通じた新旧双方の家産に等量性が求められたことも、原則としては事実である。慶応二年の事例で執拗に嘆願された、領分についての村替・代知による調整は、城郭からの遠近という郷村の立地条件も織りこまれてはいたが、それ以上に所替の前後における領知高の等量性を強く主張したものであった。換言すれば、大名の領知が石高による数量的な表現に化した後も、なお家格にもつながる伝統的な私領(の高)という性格を維持していたことを無視するべきではないと思う。多分にまわりくどい表現になるが、将軍の家産官僚であると同時に、自らが家産の主でもあった大名───当主および家中の面々は、このような家産を維持・管理しつつ、それぞれが家職として、包括的な領知または一部分に相当する職務に従事してきたのであった。言葉の意味において、これまで意識して不用意に用いてきた「家産官僚」としての大名は、広狭あるいは公私両様の内容をもったのであり、それは幕藩体制下の家産が重層構造をなしていた故であろう。
 
 本章では、大名の家祿・家中・家格を、世襲的に維持されたモノとヒトとそれらの総体となる社会的地位と考え、それらをもって、上位に位置する幕府機構の一セクションを占めた大名および家中の集団を、近世の家産官僚と表現しておきたい。目下のところ、用語や概念の細部を論じる用意はないが、最後に、転封の実態から導かれる領知移動の諸相が示唆する、次の諸点を確認しておくことにしよう。
 第一に、領域における独立した法権者であった大名は、土地と人を包括的に領知する地方行政の担当者であり、同時に、幕府の役職就任(予定)者でもあったという、存在形態の二重性を備えていた。第二に、その基盤として保有した文字通りの家産について、公儀と表現された将軍・幕府への所属を強調すればM・ウェーバーのいう家産官僚となり、私領としての性格を強調すれば、日本の近世に特有の家産官僚となる。そして、第三に、本章で触れることは少なかったが、大名は自身が家臣団からなる官僚機構を維持し、その組織をもって幕府の官僚としての職務を果たしたのであった。
 以上、簡単に辿ってきた大名家中の転封を、城邑の保持者にして幕府の機構をも構成する役職就任者の移動と見た場合、世襲的な家産の保持集団が、疑似的ではあっても官僚機構の構成員であったことから、素朴な言葉の意味において家産官僚と称してきた。用語の適否が残された課題であると同時に、譜代中小大名の、決して少なくはない転封史料を素材とした分析を、どの程度に普遍化できるのかということが別の問題点となる。二百数十の家中の二百数十年間という、結局は近世という時空の再現を要求する対象の厖大さと裏腹に、漸く蒐集半ばに達したばかりの史料状況からすれば、そもそも全面的に掌握しきれるのかどうか、残る懸念は強く大きい。
 しかしながら、転封実務の中核が家産の文書化であったこと、文書化を含む請取渡のプロセスには近世社会の縮図が現れていること、そして、これらが何れも何らかの形で官僚制の性格を探る接点となっていることは、不十分ながら明らかにできたと思う。また、これに付随して、幕藩体制下の官僚制が、(1)文書処理の技術と環境、(2)主従関係を上下の統属関係に転化し得る人の問題、(3)分権を特性とする封建社会とはいえないほどの集権性、(4)村落レベルの対応能力、などの諸点で、近代的といわれる官僚制への連続性を示唆していることを確認できれば幸いである。加えて、このような家産官僚としての大名が足跡を印した個々の領分には、当然のことながら実質的な領知の法が残され、しかも転封を重ねる家中のなかには、常にもち歩いた過去の領知法を異なる領分の領知に投影させていた。次章で扱う大給松平家の文書には、同家が通過した旧領分であった伊勢国亀山藩関係の文書が含まれており、ある家中の持ち歩いた過去の領知法が現実の領知に投影した状況を物語っている。もって幕藩制国家の構造を分析する一視覚となる可能性を見るのである。


第二章 松平乗邑文書


1 文書の概要


 転封の関係史料を類型化してみると、一方において、大名家中がいくつかの領分を転々としつつ、家中とともに持ち歩いた数少ない記録があり、他方において、固定した空間(領域)を通過したいくつかの大名家中が、その領知期間に残した藩政の史料があるという、当然の認識を得るであろう。やや飛躍するが、これらを領知の法の記録になぞらえるならば、家中に固有の、転封に伴って持ち込まれ、また持ち去られた家法の部分と、それらを含んで領域に定着した領域法の部分に峻別できるように───。本章で紹介する「松平乗邑文書」は、伝存の形態と記録の内容という両側面から、右に述べた二つの類型をみごとに兼ね併せた、極めて稀な転封の、そして同時に藩政の記録である。
 西尾市資料館(愛知県西尾市)には現在、同市域に属した過去の空間を直接に語るものではない、一群の歴史史料が収蔵されている。これらは戦後、大給松平家のご子孫によって菩提寺である松明院(現岡崎市)へ納められ、同院から西尾市に寄託されたもので、次に示す記録類を含んでいる。

亀 山 訓 (中縦帳)
亀 山 訓 全 (小横帳)
亀山拾冊之内(1) 亀山諸事覚
  同  上   (2) 亀山御入部以来 町方諸事覚
  同  上   (3) 亀山御入部以来 郷方諸事覚・鉄砲改一巻
  同  上   (4) 御普請方諸事覚・火消御定覚
  同  上   (5) 亀山 御城附武具并御手前武具覚
亀山御入部以来 所々番所定并町廻等之覚
  同  上   (6) 亀山宗旨方等諸事覚
  同  上   (7) 亀山御入部以来 御境目御見分并御鷹野一巻
同 上使御往還御出会并従他所御使者御飛脚参候節覚
同 御領分御損毛御届并火事有之節覚
  同  上   (8) 亀山 諸事被仰出覚
  同  上   (9) 亀山御入部以来 勘定所諸事覚
  同  上   (10) 亀山御入部御参勤御帰城 年始五節供其外御祝儀事
従公儀被仰出候御書付写覚
寛永九年御拝領之白銀割符之覚
遠州浜松御分限帳 勢州亀山御分限帳
御軍勢御備帳
宝永二酉年より延享元年まて 源寿院様御代 公義御家御倹約被仰出候写


 一覧して明らかなように、これらの中身は主として伊勢国亀山藩関係の史料であり、近世の社会構造を表面的に眺めた場合、何故このような記録が西尾市に伝存するのかという、素朴な疑問を抱くに違いない。右の諸冊子のうち、冒頭に掲げた「亀山訓」には、「亀山主源乗邑自序」として、「我また志州に入部せし時、十五許の条目を父祖の旧章によりて撰して出す、其後勢州亀山に封せられて、又十七許に補しておしへぬ、干時宝永辛卯四月朔日なり」(西尾市史編纂委員会『西尾市史』近世下<昭和五一年三月>に全文を収録する)という文言がある。従って、これが少なくとも、乗邑の亀山城主時代に補筆され、以下の「亀山拾冊」等についても、松平家中が領知した亀山城邑に関する記録であったことは、容易に判明する。同様に、これら全てが家中の移封によって、亀山から持ち去られたことも、また想像に難くない。事実、城主が松平乗邑であった時期の亀山藩政の記録は皆無に近いのである。ところが、松平家中が西尾にいたる経路は、決して単純ではなかった。


2 大給松平家

 周知のように、松平乗邑は八代将軍徳川吉宗のもとで、大坂城代から享保八年(一七二三)老中になり、元文二年(一七三七)には勝手掛老中に就任して、幕府の財政改革に敏腕をふるった、有能にして個性豊かな大名であった。彼を生み出した松平家は、三河国に発する大給氏で、天正年間に上野国那波郡(現伊勢崎市)内で一万石を領し、美濃国岩村(現岐阜県恵那郡)から遠江国浜松・上野国館林・下総国佐倉を経て、延宝六年(一六七八)肥前国唐津を領分とした中小規模の譜代大名である。唐津で襲封した乗邑は、さらに志摩国鳥羽・伊勢国亀山・山城国淀というように転封を重ね、大坂城代から老中に昇って佐倉に再入封した。しかし、彼の強引な年貢増徴策に対する世上の反感から老中職を罷免されたあと、家中は出羽国山形を経由して、大給氏発祥の故地に近い三河国西尾に移り、この地で明治維新を迎えたのである。
 このように、近世の一時期、乗邑が当主であった大給松平家中は、中小規模の譜代大名の例に洩れず、典型的な転封の家の一つであった。やや繁雑なので、領知移動の軌跡および歴代当主(城主)を年表風に辿っておこう。


* 国友銘は大給松平家の転封に従って移住した刀鍛冶.鍔銘に見える地名は
    大名家中の移動に随伴した職人社会を如実に表現する。


 これによって大給松平家中が、頻繁に転封を重ねた大名家であったことは勿論、それ以外に、同家中、とりわけ乗邑およびその時代の記録が、以後数度の所替を超えて伝わった経路が明らかになるであろう。また、その内容も、たび重なる家中の転封と密接に関連することは、(8)「亀山 諸事被仰出覚」の随所に散見する「鳥羽ニ而之ことくに可仕」「唐津以来」という文言、あるいは

亀山は鳥羽之御所務ニ引合候而は宜候得とも、彼是致差引候而は、存候程之儀も無之、第一今年之義ハ御所替ニ付、惣御引取之御入目、江戸ニ而之御物入、扨又当所往還之御造作、旁以大分之儀ニ候故、差当り候而は鳥羽之御賄より御難儀之方に而候(略)
(寅十一月廿七日 御意)

といった、転封以後の亀山藩政につながる記事が示すところである。


3 松平乗邑文書

 ところで、先に一覧した記録類を本史料編で「松平乗邑文書」と題したのは、第一に、これらが松平家中の終の地西尾市に伝存する、乗邑が城主であった亀山藩関係の史料であるという点、第二に、松平家歴代当主のなかで占める乗邑の特別な位置づけによる。恐らく、彼の発揮した特別な政治手腕と、幕閣内外の軋轢、そして罷免・蟄居という劇的なキャリアは、前章で述べた「官僚型大名」の典型として、その知見ともに異色の存在であった。ために以後の当主は、乗邑の記録を自らが筆写し校訂するほどに尊重し、特に「亀山拾冊」として領知移動の間、忠実に持ち歩いたのであろう。明治期を経て西尾市にいたるには、そんな経緯があったのである。列挙した記録のそれぞれは、乗邑の領知内容と個性を存分に窺わせ、転封により持ち歩かれた家法ないし藩政史料の存在形態を表現するものである。
 以下、「亀山拾冊」と称された各文書について簡単な解説を付しておこう(「文書の概要」で付した番号順になっていないのは、校訂作業の都合による)。
 (8)「亀山 諸事被仰出覚」については既に触れたが、(10)「亀山御入部 御参勤 御帰城 年始五節供其外御祝儀事 従公儀被仰出候御書付写覚」は、乗邑が宝永七寅年(一七一〇)亀山に入封した後の数年間、家中で行われた諸々の儀礼の記録である。同書冒頭の目録をみれば、領知移動を実行するための幕府との関係や、家中が初めて入封する際の家臣の宿割、亀山から移封する板倉家中との応接など、転封実務のなかでも、どちらかといえば儀礼に相当する部分の記録が集められている。また、転封後、亀山城主となった乗邑が初めて封地へ入った際の、家中や領民の応対の様子や、関係諸向きによる新城主への目見えの実情が記されていて、転封記録としての実質を備えている。それ以外に本史料には、大名家中における日常的な年中行事を実録した部分もあって、近世の武家儀礼の一端を如実に語っている。さらに、幕府の金銀貨幣政策に関する触書を収録し、家中および領民に対する教訓としているのも、封建道徳の護持者たる乗邑自身の関心を示して興味深い記録となっている。
 (2)「亀山御入部以来 町方諸事覚」・(3)「同 郷方諸事覚 鉄炮改一巻」は、ともに宝永七年六月の亀山入封時の通達(「御城請取相済候付、郷〔町〕中江左之趣書付相渡候」)に始まり、家中が亀山を去った享保二年(一七一七)一一月にいたる、村方・町方の仕置すなわち領知の記録である。これらは、転封を重ねる大名家中が領地に残した藩法史料であると同時に、束の間の領知対象にすぎなかった領域から持ち去った家法としての性格をもつ。ここに記録された諸事項は、当該期における藩政の実態を如実に示すが、転封に関連して特徴的なのは、前後の家中間における領知の連続性と、断絶あるいは相互の独自性が現れている点である。
 例えば、随所に散見する「先規・先格・先御代之格」という文言からは、入封した家中の施策が「前々ニ不相替」「只今迄之通」りであったことが窺える。反面「(旧領)鳥羽ニ而之通」、「此以後は不差上(先御代の献上物)」という扱いも見え、領域の先例、家中の旧例、新たな改定などが交錯し、年次を追って変化していく状況を追求できる素材となっている。
 (9)「亀山御入部以来 勘定所諸事覚」は、亀山入封以来の勘定所事項を収める。(5)は、@「亀山 御城附武具米銭并御手前武具覚」A「亀山御入部以来 所々番所掟并町廻等之覚」を合冊したものである。@は宝永七年六月、亀山入封時の書上で、城附の武具・米・銭、および松平家中固有の武具について、種類と員数を調査し記録したものである。大名家中の転封に際しては、上使と代官に城郭および領知事項の詳細を報告しなければならなかった。そのうち、数十項目にわたる「上使尋書」には「城附武具并城米」といった項目が含まれており、上使からの尋書に応じて、亀山から移封した板倉家中が作成した「亀山御城附武具帳」(@はその「写」を収録している)などに加えて、大給松平家中の基本備品ともいうべき諸品目を細部にわたって書き上げたものである。外題に「不残」と記しているのは内題の通り「米・銭」の誤記であろうが、編成時あるいは後代の筆写時に何らかの誤解が生じたことを示唆して興味深い。
 Aは城郭および城下に置かれた番所について、番人や武具備品の員数、出入りする人の格に応じた番人の衣服・作法を含め、番所勤務のマニュアルというべき規定を「勤形」の掟として、それこそ詳密を極める形で記録したものである。随所に先城主時代の先格や、松平家中が通過した旧領、就中、鳥羽・唐津における先例が留められている。ある意味では日常レベルの些事といえようが、持ち歩かれた家中の法(=掟)と取り入れた他家中の先例が交錯し、転封大名ならではの記録となっている。全体的には微に入り細に穿った指示・通達の集合体という印象が強く、″文書による饒舌家″乗邑の面目躍如というところであろうか。
 (1)「亀山 諸事覚」は、亀山に入部した乗邑が家中に指示し(「被仰出」)た事柄を、ほぼ年月順に書き留めたものである。差図を受ける立場と併せれば、老中から足軽にいたる家中の諸士の、亀山と江戸における生活空間を偲ばせる素材となっている。
 その他の文書については解説を省略するが、本報告書の第二部(史料編)に本文を収録したので、参照して戴ければ幸いである。


第三章 越智松平家記録

1 記録へのアプローチ

 二百数十の、後に藩と通称または公称される「家中」の領知移動については、その実態は勿論、幕藩体制という社会システムのもとで転封がもつ意味も含めて、前二章では、転封史料が大きな役割を果たすことを述べてきた。すなわち、これらが過去の空間を再現し、例えば家と官僚制の接点、あるいはその視点から見た日本型社会の特質を分析するために、好個の素材を提供することに触れてきたのである。
 このような問題関心のもとに、本報告書で越智松平氏を取り上げようとした発端は、第一章でも取り上げた天保七年における同家中の浜田移封であった。これは、松井松平氏が石見国浜田から陸奥国棚倉へ、棚倉から井上氏が上野国館林へ転じたのにともなう、いわゆる三方領知替の一環となる転封であるが、松井・井上両氏には転封の実務記録が確認されるのに対し、越智氏の場合は一部を除いて移封関係の史料に行き当たらず、長州征伐時の浜田落城の故かと諦めつつ関係史料を探していた経緯があった。
 ところが、同氏には編集された家記が存在した。それも、灯台もと暗しというべきか、数年親しんでいた京都大学法学部所蔵の、大部かつ詳密な藩政記録を繙いて、漸く史料という観点から、この三方領知替に関わる未処理史料のモザイクは完成したのである。本報告書の第三部(史料編)第二章に収めた「越智松平家記録」は、この時の記事を抄出したもので、第一章で触れた転封史料の第三類型(家中の「御用日記」など藩政の記録)、すなわち藩庁の記録に残された転封実務の推移が細大もらさず書き留められている。


2 甲府支族越智松平家記録

 ここで取り上げる表題の記録は、主に京都大学法学部所蔵本をベースとしている。浜田市立図書館にも同タイトルの記録が架蔵されるが、照合はしていない。また、関連する地域史等(例えば『群馬県史』資料編9近世一)に部分的な記事が収録されているが、全巻を概観する便宜は少ないと思われるので、まずその全体を見ておこう。
 「甲府支族越智松平家記録」(以下「記録」と略記)は、篇および巻で編成され、各巻はさらに上中下あるいは一〜五に分冊されることがある。全体は、第一篇(宝永三〜享保九年、一〇巻、一〇冊)・第二篇(享保一〇〜一一年、五巻、五冊)・第三篇(享保一四〜安永八年、五一巻、五五冊、分冊・合冊により巻数と冊数は一致しないことがある。以下同じ)・第四篇(安永九〜天明四年、五巻、九冊)・第五篇(天明五〜天保一〇年、五五巻、一二一冊)・第六篇(天保一一〜一三年、三巻、一〇冊)・第七篇(天保一四〜弘化四年、五巻、一二冊)と編成され、総冊子数は二二二冊におよぶ。概ね年次別で独立巻数となっているが、なかには複数年を合冊したものもあって、巻立ては必ずしも一定していない。
 冒頭の「記録序」(第一篇 巻之一)には

自古邦国必有史記、有事必書之、所以伝祖宗之政蹟於子孫(略)我藩享保五年以前無記、蓋以東都邸数回録焼亡之也、其所存領地之記、以享保六年 太祖君始入封為始、而東都邸之記、元文二年以後有之、其他有紀諸告 官府事之簿、有命令之記、有刑罸之録、有監察市長郡吏等之記、又有紀諸臣各職掌俸祿之簿、如此散在互見不得一覧而尽、於是命臣蠡、約而編集之、蠡受 命按之、宝永・正徳中至享保之初、唯有郡吏之記耳、是固非政府之記、則可取者鮮矣、因使家臣各出其私記及親族之書等、并彼此而拾取其関於政而要於事者、以為此編、雖然実以燼余所蒐輯、則固精要之事多脱漏矣、所謂存十一於千百者也、是為序、
  寛政十二年庚申閏四月
臣石井 蠡 謹撰  

とあるので、編修の事情については概ね知ることができよう。実際の記録は宝永三年から始まり、途中若干の欠年もあるが、弘化四年にいたる一四〇年余の記録である。年次によって精粗の差があるのは、記録すべき事績の多少や編者の関心度、素材となった文書類の多寡によるのであろう。しかし、この記録がこの家中を通りすぎた時間を、まず最も基本的に語っていることに間違いはない。序に続く「凡例」で「此書元来領地ヲ主トシテ記ス、故ニ宝永三年万石ノ地ヲ領セラルヽヲ以テ濫觴トス」というように、越智家が万石つまり大名に取り立てられてからの、単に領知事項だけではない藩政全般の記録である。
 このように、よく整理・編集され、しかもかなり尨大な記録を越智家は残していた。勿論、譜代中小規模の、領知移動を経験した大名家中にあって、これ以上に大部の記録を残した家中がないわけではない(例えば「前橋藩松平家記録」、前橋市立図書館蔵、越前松平家の藩政記録)が、依拠した「明細分限帳」「御家譜」「郡方ノ記」「築城記」「江戸日記」「館林老臣日記」や各種の一件記録・留帳類、さらに諸士諸家の私記などを含めて、越智家もまた「記録の家」の一つであったといってよいであろう。


3 越智松平家

 さて、叙述の順序が逆になったが、そもそも越智松平家は、宝永三年に万石の領地を得て後、翌四年正月に館林城主となり、以後幕末にいたるまで大名としての家格を全うした家である。その間、享保一三年(一七二八)に陸奥国棚倉へ移封し、延享三年(一七四六)には再び館林へ入封、天保七年(一八三六)には石見国浜田へ移封した。慶応二年(一八六七)、第二次長州征伐に敗れて浜田城が落城したあとは美作国鶴田へ移って明治維新を迎えた。先に転封史料のモザイクに触れたのは、その際の悲劇的な戦禍で記録類も滅失したものと速断した過ちを改めるためでもある。
 同時に、「甲府支族」という名称が示すような将軍家につながる特殊性があるものの、ほぼ確立した幕藩体制下で、それこそ寄合衆でしかなかった旗本クラスの一家から、比較的短時間で″万石から城主へ″というプロセスを辿り、大名家中が形成されていく実態を知る恰好の素材となると思われるからである。「記録」の首部はその点、まさに越智松平「家」形成の過程を書き留めているので、次に抄録しておこう。

(1)宝永3 万石
此書元来領地ヲ主トシテ記ス、故ニ宝永三年万石ノ地ヲ領セラルヽヲ以テ濫觴トス、
(松平家記録 凡例)
(宝永三年正月九日)命アリテ太祖君ヘ一万石ノ地ヲ加ヘ賜リ、雁間詰ニ 仰ヲ蒙ラせ給フ、旧ノ領地ニ并せテ一万四千石ノ地ヲ領シ給フ
(2)宝永4 館林城主
b宝永ヨリ享保ノ初、築城イマダ成ザルノ間ハ、城代モ置カレズ、大目附・物頭・町奉行・郡奉行等交代在勤シ、代官一両人置ルヽ迄ナレバ、然ルベキ記録モナシ、享保四年ニ始テ用人ヲ在勤せシメ、同五年ニ到リ山名丹解ヲ城代ニ命せラレ(略)享保六年三月 太祖君御帰城ノ日ヨリ丹解ガ手日記アリ、其他目附ノ日記モ是年ヨリ有ニヨリ、領地ノコトハ大概アレトモ、江戸ノ事知レザルニ依テ、引合ザルコト多シ(凡例)
b(宝永四年正月十一日)太祖君ヘ松平ニ復姓スベキ旨 台命アリ、且ツ一万石ノ地ヲ加賜せラレ、上野国館林ノ城地ヲ賜フ、モトノ領地ニ并テ二万四千石ヲ領シ給フ、此日出羽守ニ転任シ給ヘリ、是ヨリ先キ館林城破壊せラレ、当時全ク墟トナル、然ルニ此地ヲ賜リシコト、蓋シ 当将軍家モト御在城ノ跡故、御由緒ヲ以テ賜リシ也、
b(同五月十五日道中御条目)喧嘩口論之儀、常々被 仰出候通可慎之、殊今度は大切之御用之場所ニ而有之間、たとへ案外狼藉至極〔堪忍脱ヵ〕難仕事ニ而、一分立かたき儀ニ而も御為を存合、無事ニ仕、其趣目付ニ相断指置、後日之沙汰及へし、若於相背は不忠至極不過之者也、尤可被処重科、下々并雇之者迄、此旨堅可申付事、

 このように越智松平家の当主は、大名かつ城主として近世社会の領知権者の地位を確立したのであるが、それには短期間のうちに形成された家中の組織が不可欠であった。つまり、自ら将軍の家産官僚としての道を歩むことになった大名個人は、同時に自らの家産官僚=家臣団を様々な手だてを通じて作らなければならなかったのである。上掲の記事に続けて「記録」第一篇が、城主となった越智家が家中、すなわち人の集団──換言すれば勤役の集合体を糾合して領知のシステムをかたち作っていく過程を克明に記録するのは、それが如何に重要なことであったかを示している。その実態を分析して家中の形成原理を探る作業が、本報告書以後の課題として残されていることを痛感する次第である。


4 家中の形成─むすびにかえて──


 右に述べたように越智松平記録は、「家中」といわれる大名家の成立事情を示すという意味で、幕藩体制完成期における家中成立の標準形を窺うに好個の史料である。ことに、記録の存在そのものが「家」の形態を如実に物語る経緯を熟知する研究者にとっては、この時期に、将軍家に接するやや特殊な家であったという事情は留意しておくとしても、新たに封を得て大名になった同家の展開は、大名家中形成の一モデルとなりうるのではないかと思えるのである。ただし、家中形成の普遍性については、時期の相違や大名および家中をめぐる歴史環境を認識した上で、他家中との広範な比較検討を通じた、さらなる検証が必要である。
 このように数多の課題を残してはいるものの、幕藩官僚制の核となる「家中」こそが、その形成過程を含めて、日本型の組織原理となる見通しを得たことを付記して本章のむすびとし、併せて本報告書(第一部)を終えたいと思う。