名城大学・輪中研究会


 

               名城法学48-1(2000.6)
   

輪中村落の研究 史料編


  東高木家文書 一



              名城大学輪中研究会

               代表  谷 口  昭



木曽・長良・揖斐三川流域──いわゆる輪中地域においては、古くから農地および集落の周囲に堤防を巡らせ、度重なる洪水に備えてきた。今も随所にその名残りを見ることができるが、堤内堤を含む多くの、しかも大規模な輪中堤が築かれたのは近世に入ってからである。当時の文書に「堤普請」「川除」「川通御用」と表現された築堤とその維持・管理については、村落および村落間の緊密な共同態勢を要し、利害の調整には領主権力も関与する厳重な取決めが必要であった。本研究は、治水、すなわち用水(利水)と悪水(排水)をめぐる法と生活の実態を、近世村落を基軸として法制史学的見地から解明しようとするものである。
 広域にわたる治水事業については、工事技術上の問題点はともかく、現代でもなお地域の合意が形成され難い場合が少なくない。水難と直面するべく宿命づけられた近世の輪中地域では、三川の流域に位置する村落間の相論は勿論、すぐれて近世的に細分化され、錯綜した支配権のもとで多様な治水史を経験し、数多の問題点を露呈してきた。それらは、輪中村落であるが故の、水と共生した平穏かつ日常的な「川役」、あるいは反対に水との壮絶な闘いの諸相を示すとともに、つまるところは幕藩体制という社会システムに連なる、広く長い歴史的空間を再構成する素材となるであろう。


一 名城大学輪中研究会


 些か旧聞に過ぎるが昭和五七年、名城大学法学部では、叙上の問題に関心をもつ内外の研究者が集まり、輪中研究会を設置した。現地に伝存された近世および近代文書を採訪調査し、輪中村落に特有の歴史的現象と法意識を、法制史学ないし法社会史学的な手法を通じて考察するためである。爾来十有余年、当初の数年間で数万コマにのぼる文書を撮影し、マイクロフィルムの形で蒐集・蓄積。ほぼ月例で開催した研究会活動を経て、解読・校訂と内容の分析を進め、目録の作成と輪中文書をデータベース化する作業は今日もなお続けられている。
 設立間もない頃、研究会のメンバーが関心を持ったのは、当該地域の旧家に伝えられる文書群であった。すなわち@片野・A森川・B国枝(駒野新田)・C石川(津屋)四家の文書を調査の手掛かりとしたのであるが、@BCはいわゆる地方(村方・庄屋)文書のカテゴリーに属し、しかも@は所蔵者の手によってよく整理され、既に展示に供されていた(片野記念館)。それに対しAは、ある研究グループによる整理の痕跡は残しながらも、かつて公表されることはなく、試みに始めた写真撮影が進展するにつれて、質量ともにひときわ特異な文書であることが判明し、調査に携わった面々を狂喜させたのである。のちに触れる森川家文書(岐阜県海津郡 森川勝之助氏所蔵)がそれで、以後の調査活動はその整理と写真収録に全精力を注ぐこととなる。
 ところで、十数年にわたって継続した研究会は、左の会員によって構成されていた。

大石 学  宇野春雄 楠見保夫 島 善高
高木敏行 谷口 昭 西部憲治 浜口秀夫
前田正治 光田利明 山下智子 山中雅子
前島和幸 古瀬和彦 (五十音順、協力者を含む)

 大学院生を含む名城大学関係者を中心とする以上、新任・転任・入退学などで異動は避けられず、必ずしも全員が全期間を通じて活動できたわけではない。しかし、会員の多くは、町営の海津温泉を基地として定例化した合宿研究会に参加し、蝉しぐれに包まれた旧家の奥座敷を古文書で埋めつくしては、猛暑のさなか、六百ワットの白熱灯に腕を焦がしながら写真撮影に勤しんだのである。折々の風景は今も脳裏に鮮やかであるが、惜しむべきはこの間、二名の会員が物故されたことである。現地にあってよく調査をアレンジされ、またご家族ぐるみで心のこもった昼食を準備して戴くなど、研究会の活動を影で支えて下さった高木敏行氏は、誠に早く昭和六十一年に逝去された。近くは平成十年、全ての調査と文書の解読をリードされた前田正治教授が鬼籍に入られ、輪中研究会にとって重なる大きな痛手となった。今回紹介する「東高木家文書」の多くは先生の筆写・校訂になるものであり、夙に成稿を得ながら公刊が今に遅延したことを衷心よりお詫び申し上げる次第である。


二 東高木家文書

 現地調査を一段落させた輪中研究会は、以後の活動を蒐集文書の整理と分析にシフトすることになった。自ずとその中核となり、焦眉の課題となったのは前項で触れた森川家文書である。この文書群が森川家の所蔵となった経緯については省略するが、土壁作りの蔵の中で長持・木箱・亜鉛箱に分けて収納された保存状態は極めて良好で、よく維持された所蔵者のご苦労は想像するに難くない。
 輪中村落の法意識にスポットをあてた研究会が森川家文書に瞠目したのは、一見して明らかな如く、これらが一般的な地方(村方)文書ではなく、ある種の支配文書──特に治水に関する──だということが判明したからである。周知のように輪中地域は、周辺の大名領や笠松代官の管轄、あるいは相給を含む旗本の知行所が錯綜している。従って、数千点に及ぶらしいまとまった文書群が、伝存の経緯からしても小規模な領知・知行の記録である筈はなく、特別の由緒に裏づけられたものに違いない。まさかと思いつつ束ねられた文書を文字通り繙くと、いきなり目に飛び込んできたのが「川普請」「高木」「東役所」──衝撃にも似た身の震えの前に、そんな文字が飛びかっていたのである。
 折しも名古屋大学では、全学プロジェクトとして「高木家文書」(西家)の整理が進行中で、その目録が刊行されつつあった。それによれば、交代寄合美濃衆と呼ばれる旗本高木家は、西(二千三百石)・東(千石)・北(千石)の三家からなり、同大学の所蔵するのはこのうち西高木家文書で、東家の文書はその一部が名古屋市の蓬左文庫に残るが、北家の文書は所在不明。高木家の性格を知るためには三家の文書が揃うことが必要(高木家文書調査室編『高木家文書目録』一〜五)だとされていた。このような状況下で東高木家関係の文書に遭遇した研究会のメンバーに走った戦慄は、けだし当然のことであった。
 一時の衝撃を克服したあと、研究会の作業は大きな困難と直面することになる。というのは、従前の整理──記録当時に一括されたに相違ない大中小の袋の別、それをベースとして束ねられた森川家および他グループによる文書括り──の原状を尊重しながら、未着手文書を含めた全体を再整理して項目ごとに分類し、作成した目録からカードを辿ればスムーズに複製写真と原文書に到達するルートを確立することが急務だと認識されたからである。
 そこで研究会は森川家の諒解を得て、三ないし四つの階層構造を持つ「城av(「城」は整理責任者である名城大学輪中研究会の略称)を付して、幾重にもグループ化された文書の原状を識別し、最終的には文書単体を、例えば冊子一冊、書状一枚にいたるまで特化できる手法を採用した。何度かの試行錯誤の結果、漸く史料カードと写真プリントによる複製文書、さらに校訂途上の史料原稿が完全にリンクするようになったのが、数年前のことである。その後、データベース化された史料カードからフィルムへ、さらに原文書へと手繰りよせるシステムを完成させたが、それにはちょうど成長期にあったワープロ・パソコンソフトの進展にあわせた、ささやかながら苦しくも楽しい処理のプロセスを辿ったことを付け加えておこう。内部資料ながら「輪中研究会 処理目録」には、その足跡が余すところなく刻印されている。
 やや処理の過程に拘泥しすぎたが、森川家文書として研究会が収録したマイクロフィルムは約五千点、そのうち約三万コマ分の文書がデジタル・ファイル化の途上にある。本号ではそのごく一部を紹介することになるが、今なお、これらを「東高木家文書」と断定するには、一抹の不安がないわけではない。この点については、いくつかの課題を設定して関連文書を剔出し、その校訂を進めるなかで論証していくことになる。


三 目録および史料の公刊

 本来であれば、このようなまとまりを持つ文書群については、その全体を史料目録として公刊し、しかる後に史料の全文または抄出、あるいはテーマごとの史料編成を行うべきであろう。事実、研究会外からの照会は少なくなく、早期の公表が要請されているのである。ただ「森川家文書」については、その大部分が東高木家に関わる治水関係史料だと見做せること、従って、それらの内容は自ずと特定されており、近世文書に通例の分類には馴染まず、独自の細項目を設定する必要があるのも事実である。現時点で考慮中の大・中・小項目をもとにした分類と個別文書の件名および概要については、近々データベースの形で提供する予定であるが、まだ若干の時日を要する見込みとなっている。
 そこで本号では、とりあえず本文書の概略を知りうるものを、なかばサンプル的に抽出して紹介することに踏み切った。とはいえ、決して無目的にこれらを取り上げたわけではない。笠松代官および代官所を通じた幕府と高木家、高木家と管下の村々が書面で結ばれた、いわば治水の「システム」とされるべきものが前後の関係を通じて表現される文書を選択したつもりである。また、多数の日記については、「川通御用」の実態を如実に示すものを選んだ。ともに、治水に関わった当事者の職制や「御用(役務・勤役)」上のやりとり、東高木家の位置づけが窺い知れるものを優先し、一件記録として今後の分析に資する意味を持たせている。次号以下では、課題または項目ごとに摘出していく方針であるが、何回かの連載の終わりには、東高木家文書の全貌と同家の勤役であった川通御用の実態、さらに同家が輪中地域の治水で果たし続けた機能が把握できるようになる筈である。そして最終的に、西高木家文書(名古屋大学所蔵)および逢左文庫文書、その他の関連史料をも併せた経時的かつ案件ごとの輪中史料を再構成してこそ、笠松代官所と連携して、あるいは独自に高木三家の果たした機能の核心に迫る分析が可能になるのであり、それは爾後の課題とする他ない。
 掲載した史料本文の筆写・入力は、研究会参加者全員の手になるものである。採録にあたっては、記録当時から意図づけられた数十の一括文書(内部で細分化された文書の束を併せれば数百を越える)の体裁を保持しつつ、できるだけ内容を把握できるように配慮した。史料番号ごとに解説を付した(山中雅子氏による四 史料解説)のも、概略を知る便ならしめるためである。解説および史料本文に付した階層番号は、必要に応じて撮影したマイクロフィルムの収録箇所、および原文書そのものを特定するためであって、必ずしも項目の類別に結びつくものではない。番号冒頭の「城」の文字は、名城大学輪中研究会による整理番号であることを示す。校訂に際しては可能な限り原文を忠実に再現するよう心掛けたが、包紙の文言や宛所・継立村名などには省略した部分があることを諒解されたい。
 さて、「輪中村落の研究」をテーマとした輪中研究会の発足後、十有余年にして漸く研究成果の一端を公表する運びとなった。会の目的は、第一に、蒐集史料、特に中核をなす森川家文書を整理し、実用に適した目録を作成して学界に提供することであり、第二に、現地を含む研究協力者と共同して史料の分析に基づく多様なテーマを集成した論集を世に問うことである。調査に要する経費は、主に名城大学による学内研究助成金に負っており、毎年のように督促される成果物の刊行は、私にとって大きな重荷となっていた。
このような目的と経緯からすれば、成果の公表──しかも大幅に遅れた──はまだ緒についたばかりである。しかし、この遅延には若干の理由がないわけではない。弁明が許容されるならば、まず第一に、研究対象が数年間の学術助成経費を遥かに上回る規模となったこと、従って第二に、研究協力者を含めた、しかも転任等で出入りのあった会員による処理能力を大幅に上回ったこと(一時は研究会の実を喪失したこともある。因みに本研究が扱う約十倍、五万点の西高木家文書は名古屋大学において全学プロジェクトで五年以上を費やして目録を刊行)、第三に、処理途上で史料カードと原稿用紙からワープロソフトによる処理へ、さらに著しく成長したパソコンによるデータベースを基調とする形に変更したこと、第四に、研究会の処理能力を上回るボリュームの文書についても、全体を把握しなければ、研究対象の性格からして部分的な公刊も無意味となる恐れがあったこと、等々である。これらが相俟って、夙にワープロによる印刷物は完成していながら、成果の刊行が今に遅延したことに強い慙愧の念を覚えるものである。せめてもの慰めは、直接の研究目的であったとはいえないものの、本研究で開発した文書処理のシステムが、各種の史料分析に威力を発揮するものに成長した──そう評価できることであろうか。
 最後に、多用のなか協力を惜しまれなかった新旧会員各位への感謝と、その成果をよく生かせず、ここまで遅延させたお詫びを申し上げたい。本史料編についての文責と同様、全ての責めは私が負うべきものだからである。
 ささやかな成果の公表は、当初の研究活動に不可欠の貢献をされた故高木敏行氏と、精力的に筆写・校訂をこなされ、その一部なりとも公刊されぬままに物故された故前田正治先生を追悼する意図を籠めている。またこれが、調査および史料公刊に対して与えられた現所蔵者森川勝之助氏の多大なご厚意に応える責務の一端であることはいうまでもない。

               (谷口 昭)


四 史料解説


城一八―一―三 (年不詳)一〇月二日、江戸の高木家臣大河原・三輪・外一名より多良在と思われる酒井・三輪・稲葉宛の書状。高木図書の逝去に伴い国役普請見廻御用取に差し支え出来した。堀田備中守公用人大野舎人に内慮を伺い、同人の指示で在所(多良)へ連絡の上、修理・大内蔵の請書等の書類を大目付田村伊予守・勘定奉行勝手懸月番土岐摂津守へ差出す。各々取次・用人からの内慮の趣旨をもとに高木修理・大内蔵より請書を差出すよう求めている。
城一八―一―一〇 (年不詳)一一月一二日、多良役所平塚・小寺・三和より江戸の三輪・大河原宛書状。内慮の趣旨に従い、国役普請見廻請書は三人の名で出すが、見廻御用は修理・大内蔵で行う旨の届出。前文書とともに尾張便(飛脚)を使用していることが注目される。
城一八―一―一一 (年不詳)九月一九日、高木三家に国役普請見廻御用が命じられた後、高木修理・大内蔵から高木図書死去の届が堀田備中守・大目付田村伊予守へ提出された。図書の死去による御用勤方について高木家臣より九月晦日付で堀田・田村両名の取次と勘定奉行土岐摂津守の用人宛になされた内伺の書面。
城一八―一―一二 (年不詳)一一月、高木大内蔵・修理より国役普請所見分の結果を勘定奉行本多加賀守・外五名へ報じ、一〇月二六日迄に普請出来の旨を老中宛に届け出る書面案。
城一九―一―五 (年不詳)七月八日、笠松堤方役人戸沢・森川・野々村より多良川通役三和・小寺・平塚・外三名に宛て、濃州大野郡数屋村用水出入に際し、宝永三年上下真桑・高屋村水論裁許時の絵図面と笠松役所控え絵図面を突き合わせたところ齟齬するため、多良控え絵図面を見たいとの申入れに、多良役所絵図面は見あたらず、古書類のみ差出すとの書状が到来した。これに対し古書類は落手したが、加えて宝永三年絵図面の探し出しを願う書状。
城一九―一―一〇 (年不詳)七月朔日、笠松堤方役人戸沢・森川・野々村より川通方役人三和・小寺・平塚、外三名宛書状。濃州大野郡数屋村用水出入時における宝永三年上下真桑村と高屋村外の水論裁許の絵図面を拝借したいとの申入れ書状。
城一九―一―一二 (年不詳)七月五日、多良川通役より宝永三年の絵図面は見あたらず、古書類のみを差出す旨の書状。
城一九―一―一八 安永七年一二月一〇日、佐野・藤牧より土屋・三輪・加藤宛。濃州・勢州川々普請見廻に対する江戸留守居衆よりの御用状。交代寄合旗本の高木家の江戸詰「留守居」の実態は今後の課題である。
城一九―一―二七 寛政二年九月、戸田采女正預所濃州本巣郡穂積村が長良川通川向の砂利で堤の自普請を願い出ていた。堤方・高木家が見分・吟味した結果、御料・私領五三ヶ村に差障りとなることが判明。穂積村は願いを取下げ、戸田采女正手限りの模様替え程度の普請に切換えて関係書類を戸田家役人に引渡した旨の届書。宛先は勘定所で辻・高木三家の連名で差出している。
城一九―一―二八 寛政二年八月二八日、笠松代官辻六郎左衛門より高木修理・監物・千之助に宛てた上・下穂積村自普請一件願下ヶ届に調印を依頼する書状。
城一九―一―二九 寛政二年九月朔日、高木千之助・監物・修理より上・下穂積村自普請一件願下ヶ届調印の上、笠松代官辻六郎左衛門へ差返す旨の書状。
城一九―一―三〇 寛政二年九月朔日、多良川通役藤田・加藤・小寺より笠松堤方役人横井・野々村へ宛てた、高木家三人より笠松代官辻へ上・下穂積村自普請一件願下ヶ届書に調印の上、差返す旨を報知する書状。
城一九―一―三一 寛政二年八月二八日、笠松代官辻六郎左衛門より高木修理・監物・千之助宛てた上・下穂積村自普請一件願下ヶ届に調印を依頼する旨を、笠松堤方役人野々村・横井より多良川通役小寺・加藤・藤田に伝える書状。
城一九―一―四六 辰年普請吟味の件に関する書状。
城一九―一―四七 濃州・勢州・尾州川々川床高成り悪水落普請の件に関する書状。
城一九―一―四八 (年不詳)五月、大榑自普請御用出役の節、多良川通役人の出費は自分賄いのため、勘考を願う旨の書状。
城二二―六―二七 (年不詳)九月二九日、日根野左京より高木十市郎・求馬・内膳に宛てた書状。左京の知行所濃州海西郡者結村は、川欠により段々石高が低迷しており、知行所内の猿尾は水除普請もなされず、自普請もしなかった。しかし、今年になって繕い普請をしたところ、川向いの辻甚太郎支配所小藪村より障りを申立てられ、多良川通役所・笠松役所堤方が立会見分した結果、その場所は新規普請と見なされ、取払うよう申付けられた。者結村百姓による江戸表への出訴願につき再見分を願う書状。
城二二―六―二八 (年不詳)一二月二九日、多良役所川通方川添・加藤より笠松役所堤方中島・赤生に宛てた書状。日根野知行所普請所再見分願につき、来春一通り立会の旨を笠松代官辻より高木三人宛てに書状を差出したことを報知し、飯木村・高鷲村論所の件を申渡す旨の書状を付する。
城二二―六―二九 (年不詳)一二月二九日、高木三家より辻甚太郎に宛てた書状。日根野知行所普請所再見分願一件、飯木村・高鷲村論所の件、および羽根村・駒野村谷先浚の件に関する対処について述べる。
城二二―六―三一 (年不詳)八月、戸田采女正預所濃州本巣郡自普請願について、上・下穂積村役人より多良・笠松役所に出された願書。一件の熟談に向けてさらに日延べを願う内容。
城二三―一―一三 (年不詳)一〇月二一日、笠松代官滝川小右衛門から高木重一郎・求馬・内膳宛の書状。勢州桑名郡上之郷輪中古敷村堤切所普請につき、多良役所川通役人・笠松役所堤方役人の見分により水行障りなしと判断。障り村の見分はしないので、そこからの訴状は取上げないで欲しい旨を諒解している。
城二三――一二四 (年不詳)一〇月二一日、笠松役所棚橋・赤生より多良役所加藤・川添宛の書状。勢州桑名郡上之郷輪中古敷村堤切所普請水行見分の結果につき、多良役所より笠松代官滝川へ伝達してもらったことに対する礼状となっている。
城二三―一―二五 (年不詳)九月、高木内膳・求馬・重一郎より笠松代官滝川小右衛門宛の書状。勢州桑名郡上之郷輪中古敷村堤が洪水で切所となった。堤方役人が見分した結果、元通りの修復には多分の入用が必要となるため、修復方法を変更しても水行に支障なしと江戸表へ報告した旨を諒解している。普請願・見分願や結果の報告が処理されるルートを示している。
城二三―一―二七 年月日不詳、高木内膳・求馬・新兵衛より勘定奉行神尾若狭守・木下伊賀守・水野対馬守に宛てた書面。当年五月以来の大雨で川床が上昇、悪水による水損対策として川浚普請を願い出る内容。詳細は笠松郡代滝川小右衛門より報告されている。
城二四―一・二 川通役山田清記による慶応二年三月一四〜二一日の出役中日記。一四日に笠松役所戸沢・横井より三和・外五名宛の御用状を請け、濃州方県郡河渡村地内古城の圦樋悪水吐浚方について支障のある村から訴願の動きがあり、対処方を打合わせるために笠松へ出役した。
城二八―一―一 平塚習・武左衛門の大川通取払場見分出役日記。弘化二年七月二八日〜一〇月六日の記事を収める。武左衛門は習の倅で見習として見分に同行、これは例年通りの大川通取払場立会見分である。
城三〇―五―一AB 弘化二年、書状写。伊尾川通の今尾村・土倉村地内鯰河原において竹腰家中が申し出た鉄砲稽古につき、笠松・多良両役所の対処方を述べる。結局、この稽古は行われず、無音に過ぎた模様。
城三七―二―五 文政一〇年一一月、戸田采女正領分濃州八九ヶ村惣代東前村名主平郎九・外六名より多良役所に宛てた願書。伊尾川通水開場一件につき内熟は不調で、さらなる熟談取扱を請うている。
城三七―二―六 文政一〇年一〇月、同前の願書。伊尾川通水開場一件につき、御料大藪村庄屋勘四郎・尾州領神戸村庄屋半左衛門・大垣領名神村庄屋利左衛門の取扱いによる内熟を承諾したが、牧村土手繕の取計は納得し難いので熟談の容赦を願う。
城三七―二―七 文政一〇年二月、戸田采女正領分濃州八九ヶ村惣代東前村名主平郎九・外六名より多良役所に宛てた訴状。伊尾川通尾州安八郡中村外方葭野における新規囲廻堤は水開の支障となるので取り払うことを願う。
城三七―二―八 (年不詳)一一月二〇日、大垣藩役人大沢・酒井・石川・外二名より多良川通方伊東・三和・加藤・山田宛てた、伊尾川通水開場の内、安八郡中須村・中村・牧村・中村出郷における堤土手の新規築立について、戸田采女正領分の村より支障の訴願。これを聞届けるよう取り扱うことを願う。
城三七―二―九 (年不詳)一一月二日、笠松役所名和・森川より多良役所伊東・三和・加藤・山田宛の書状。大垣領惣代の添翰をもって出訴することを承知し、その取計方について相談する。
城三七―二―一〇 (年不詳)三月四日、大垣藩役人桑山・小林・戸田より多良役人伊藤・三和・加藤・杉村宛の書状。伊尾川水開場における新規囲廻堤の水除土手取払いについて懸合は不調に終わり、惣代西結村民之丞より聴取することを願う。
城三七―二―一一 (年不詳)三月五日、多良役所川通役四人より大垣藩役人戸田・小林・桑山宛の書状。同前の懸合につき、西結村民之丞を聴取糺し帰村させたことを報告する。
城三七−二−一二 (年不詳)五月一四日、多良役所加藤・伊東より笠松役人森川・名和へ宛て、同前の一件につき再度の熟談を承知した書状。
城三七―二―一三 (年不詳)五月一一日、笠松役人名和・森川より多良役人伊東・加藤に宛てた、同前の一件につき、御料大藪村庄屋勘四郎・尾州領神戸村庄屋半左衛門・大垣領名神村庄屋利左衛門の取扱で交渉中であることを報じる書状。
城三七―二―一四 (年不詳)二月二七日、笠松役人棚橋・水野より多良役人伊東・三和・加藤・杉村に宛てた書状。同前の一件につき取払願が添翰をもって笠松役所に出願され、場所見分について相談したいことを述べる。
城三七―二―一六 (年不詳)二月二二日、大垣藩役人大沢・酒井・石川・外二名より多良役所伊東・三和・加藤・杉村宛の書状。同前の一件についての訴願の取扱いを願う。
城三七―二―一七 (年不詳)二月二三日、多良役所杉村・加藤・三和・伊東より大垣藩役人近藤・藤江・石川・外二名に宛てた書状。同前の一件につき出願の由を承知し、聞き届けた旨を高木修理・玄蕃・内膳に報告。
城三七―二―一九 (年不詳)一〇月一四日、多良役所伊東・三和より多良役所川通役山田宛の書状。牧村土手繕いの件で病気の伊東の代りに出張を依頼する。
城三七―二―二〇 (年月不詳)一三日、多良役所加藤より同役所伊東・三和・山田に宛てた一六・一七日が取込み中であることを伝える書状。
城三七―二―二一 (年不詳)一〇月一三日 多良役所加藤より同川通方伊東・三和・山田宛の書状。牧村土手繕いの件で一八日の出役と、三家より一人づつ出ることを依頼する。伊東は病気引籠りのため代りの出役を依頼した。
城三七―二―二二 (年不詳)二月二五日、多良役所四人より笠松役所水野・棚橋宛の書状。伊尾川通尾州安八郡中村外方葭野における新規囲廻堤築掛けに関する取払願が添翰を以て多良役所に出願された。後に笠松役所へも出願があるので同様の取計を相談することを述べる。
城三七―二―二五 (年不詳)一〇月二二日、多良役所山田・加藤・三和・伊東より笠松役所近藤・藤江・酒井・大沢宛の書状。伊尾川通水開場の内牧村土手繕につき出訴。惣代外淵村名主七郎平・外一名からの願の趣を承知し、高木修理・玄蕃・大内蔵へ報告する。
城三七―二―二六 (年不詳)一〇月二二日、笠松役所大沢・石川・酒井・藤江・近藤より多良役所伊東・三和・加藤・杉村宛の書状。同前の件につき惣代外淵村名主七郎平・外一名の訴願の趣を聞き届けられたいことを願う。
城三七―二―三一 (年不詳)三月五日笠松役人名和・森川より高木家川通役伊東・三和・加藤・杉村宛の書状。同前の件および小土手故障願場所につき、相談の上、見分することを述べる。

 以上、本号で収録した文書内容を略記したが、これらは次のような案件に一括することが可能である。すなわち、城一八―一―三〜一二は安政四〜五年において高木三家の当主の一人、図書の死去に伴って、残る二家(当主は修理・大内蔵を通称)で国役普請を見分する件であり、城一九―一―五・一〇・一二は宝永三年の濃州本巣郡上・下真桑村と高屋村の水論絵図面に関する往復書簡である。また、城一九―一―二七〜三一・城二二―六―三一は寛政二年の戸田采女正預所濃州本巣郡上下穂積村における自普請願下ヶ一件、城二二―六―二七〜二九は日根野左京知行所内における普請場の再吟味願、城二三―一―一三・二四・二五は勢州桑名郡上之郷輪中における古敷村堤修復一件、城三七―二―五〜二七・二九・三一は文政一〇年の伊尾川通水開場水除出入一件である。何れも輪中に固有の歴史的案件であったといえようが、今回収録しなかった関連文書をつなぎ合わせれば、輪中村落を通過した歴史の数コマを再構成することができるのではなかろうか。 (山中 雅子)

城18−1−3         
以尾州便啓上仕候、追々寒冷相催申候得共、御両殿様益御機嫌能被〔脱ヵ〕御座、御同意恐悦御儀奉存候、当表御静謐、御家門様方倍御勇健被成御座、是又奉恐悦候、次各様弥御堅勝可被成御勤仕、珍重御儀奉存候、
一此度濃州中嶋郡堀津村枝郷須加国役御普請所、御見廻御用被蒙仰候ニ付而ハ、図書助様御逝去之折柄ニ付、右御請御呈札、且大目付様江之御請状并御見廻方等之儀、取計方ニ差支候ニ付、夫々御取調方之儀奉申上候処、早速御取調之上巨細被仰下、拝見仕、御尤之御儀奉存候、然ル処先便申上候通、右御請書等御差出日限等も間近ニ相成候ニ付、私共心配之折柄、兎も角ニもと奉存、備中守様御勝手江罷出、公用人方迄従武左衛門御内慮伺書、去月十六日差出置候処、同廿六日夕六ツ時頃、公用人中剪紙到来ニ付、例之通取計置、即刻備中守様御勝手に罷出候処、公用人大野舎人方面会ニ而差出置候伺書江御書取相添被相渡候間、拝見仕、早速在所表江申遣候可仕段申置、引取申候、右ニ付、私共申談之上、御両殿様御請御呈札其外、大目付田村様御勘定奉行御勝手懸御月番江御差出、御書類夫々取調、右御本書江御別紙、且従御家来別紙共取調、此便差上候、別紙之通、去月廿九日大河原啓蔵同道、備中守様江差出候処、無御滞御落手ニ相成申候、夫@大目付田村様へ大河原啓蔵御使者相勤、御勘定奉行御勝手御月番土岐摂津守様へ、三輪武左衛門御使を相勤、差出候処、何れも無御滞御落手相済申候、尤此度御家来@御内慮相伺、御差図済ニ相成候御書取之趣ニ而ハ、御在所往返日積り以、修理様御方@御請書御差出ニ相成候儀之趣、乍恐奉存候間、是又夫々取調御日積り頃、備中守様江差出申候心得ニ御座候、
一以御書取御差図之趣ニてハ、 図書助様御見廻之分も御両殿様江被仰合、御廻村被遊候御儀と奉存候、此度之御差図之次第ニてハ、後年之御廉合ニも相成候儀ニ奉存候、先々右ニて被遊御安堵候御儀と奉恐察候、
一去月十七日附連紙御返書、同廿五日三度飛脚和泉屋甚兵衛@相達、一々拝見仕候、右相済申候件々別段御請書略仕、不申上候間、此段御含宜被仰上可被下候、
右之段奉申上度候条、如斯御座候、恐惶謹言
              大河原啓蔵
   十月二日            常安 花押
              大河原惣左衛門
                   常富 花押
              三輪武左衛門
                   房親 花押
  酒井 春之丞殿  三和六左衛門殿  稲葉 権之進殿
猶以別紙壱通差上申候間、御落手可然御披露可被下候、以上

城18−1−10       
   差出候御心得之旨
一以御書取御差図之趣ニては、図書助様御見廻之分も御両殿様被仰合、御廻村被遊候御儀と御思惟之旨御尤存候、此度御差図之次第ニ而は、後年之御廉合ニも相成候儀、段々御骨折之段、夫々及申上候処被遊御承知、御安慶思召御太儀之旨被仰出候、
右之趣可及御報、被仰出候済寄之儀は文略如斯御座候、恐惶謹言
   十一月十二日        稲葉 権之進                 三和六左衛門

城18−1−11         
@
一堀田備中守様江御請書御差出之節、御別紙左之通
此度美濃国中嶋郡堀津村枝郷須賀国役御普請ニ付、先格之通見廻御用、私共并図書助連名之以御書付被仰渡候処、図書助儀、病気養生不相叶、去月晦日死去仕候、此段申上置候、以上
  九月十九日          高木 修理                 高木大内蔵
AB
一田村伊予守様右御同断御別紙〔@ト殆ド同文、略〕
  九月十九日          高木 修理                 高木大内蔵
一大目付様・御勘定奉行様江御家来より左之通書面差出
此度美濃国中嶋郡堀津村枝郷須賀国役御普請ニ付、先格之通見廻御用、修理・大内蔵・図書助連名之以御書付被仰渡候処、図書助儀、病気養生不相叶、去月晦日死去仕候、依之右御普請所見廻方之儀、図書助見廻可申分も修理・大内蔵申合、相勤可申哉之段差掛候儀ニ付、備中守様江従家来御内慮相伺候処、伺之通相心得可申旨、去ル廿六日御差図相済申候、此段従私申上置候、以上
          高木 修理          高木大内蔵 使者
   九月晦日         三輪武左衛門
右同文言ニて大目付様分、大河原啓蔵名前ニて差出申候、
  堀田備中守様 御取次 高祖 覊記
  田村伊予守様  同  遠山駒次郎
  土岐摂津守様 御用人 安田  肇

城18−1−12         
一筆致啓上候、向寒之節、御両殿様益御機嫌於被成御座、御同意奉恐悦候、次各方弥御堅固被成御勤、珍重奉存候、
一平岡石見守様御知行所、当国中嶋郡堀津村枝郷須加国役御普請所、十月廿六日迄ニ皆出来、尤折々御出郷御見分被成候処、丈夫ニ皆出来いたし候ニ付、出来御届之儀、御先例之通御印状ニ而御差出被成候ニ付、今便取下候旨、早速御差出可被成候、尤此度御届之儀は、去ル九月中羽栗郡津田様・中川様御知行所 国役御普請之節、御届之振を以、御両殿様事御連名ニ而御届ニ相成候節、御近例之通御取斗可被成方可然存候、右ニ付各方被仰合、御勘定奉行様へ御使者勤ニて差出可被成候出来形御届、左之通御老中ニ御認メニ被成候間、御心得迄ニ得御意候、
上杉原半切認メ
平岡岩見守知行、濃州中嶋郡堀津村枝郷須加国役普請被仰付、私共儀、場所見廻被仰付候ニ付、折々罷出見分仕候処、十月廿六日迄ニ御普請不残出来仕候、尤箇所毎ニ委細見分仕候処、何れも丈夫ニ出来申候、依之御届申上候、以上
  十一月           高木大内蔵 印                高木 修理 印
 本多 加賀守様
 川路左衛門尉様
 水野 筑後守様
 石谷 因幡守様
 土岐 摂津守様
 立田 岩太郎様
 塚越  藤助様
 勝田  次郎様
 設楽 八三郎様
 福田八郎右衛門様
右之通御文法ニて御差出相成候間、左様御心得置可被成候、且今般国役御普請所御見廻被為蒙仰候節は、御三殿様御連名ニて有之候得共、図書助様御死去ニ付、御除名之段は追々被仰立も有之、御両殿様ニて御用御勤被遊候儀、御内慮伺も相済候儀ニ付、此度之御届ニは御別紙御差出ニも及不申間敷哉、若一御尋等も御座候ハヽ、口上ニ而其段追々御届も差出ニ相成候段、御申置有之候ても可然哉、是等之処各方被申合、御模通宜敷様御取斗御差出可被成候、尤十月十七日附之御用答ニも被仰越申通、若御役替御名前違等有之候節は、不都合之儀可有之御座候間、白紙へ御調印之上、余分御印紙壱枚差下し申候間、御不用之分追て御返上可被成候、且又御別紙御差出ニ相成候迚も、御調印無之儀御承知之儀と奉存候、万事無御如才御取斗、何月幾日御勘定奉行殿方様へ各方誰御持参、御用人何之誰へ差出相済候趣、追て委敷御申登可被成候、
右之趣可申進旨、御両殿様被仰出同断御座候、恐惶謹言
                 平塚武左衛門
   十一月十二日        小寺   勇
                 三和六左衛門
  三輪 武左衛門殿
  大河原惣左衛門殿
  大河原  啓蔵殿
追而本文之趣被申合、御手抜無之様被入御念、御勤可被成候、尤御両殿様御見廻御日並之儀は十月廿日附ニ而、尾州便江連紙得御意候間、定而御承知、此節迄ニは御届済相成候儀と存候間、最早別段不得御意候、以上

城19−1−5          
御報之御剪紙致拝見候、如仰残暑之節御座候処、弥御堅固被成御勤、珍重奉存候、然は宝永三戌年上下真桑村と高屋村外弐ヶ村と水論之節、御裁許被 仰付、其節取極絵図面、上下真桑村と高屋村外弐ヶ村江壱枚宛下置有之、右絵図面吟味いたし突合候処、当役所ニ有之候絵図面と齟齬いたし候付、貴御役所之御扣絵図面と突合申度、右絵図面御差越被成候様及御掛合候ニ付、早速御取掛御吟味相成候処、年古キ故如何相成候哉御見当無之、右ニ付、古書類写壱冊御差越致落手候、則鍬三郎江申聞候処、右書類絵図面裏書写等ニ而は、齟齬之廉不相分候間、今一応宝永三戌年之絵図面乍御手数御吟味之上、早々御差越有之候様いたし度、右之段御報旁尚可及御掛合旨、鍬三郎申聞、如斯御座候、以上
  七月八日           戸沢 鯛次郎
                 森川 栄次郎
                 野々村弁十郎
 三和六左衛門様
 小寺  勇 様
 平塚武左衛門様
 山田  清記様
 鈴木弥一右衛門様
 加藤養左衛門様

城19−1−10          
以村継致啓上候、残暑之節御座候得共、弥御堅固被成御勤、珍重奉存候、然は大野郡数屋村@同郡北屋井村江相掛り用水出入差起、去月中右用水引取方之儀ニ付、数屋村@嘆願申出、追々双方取調候処、宝永三戌年上下真桑村と高屋村外弍ヶ村と水論之節、御裁許被仰付、其節取極絵図面、上下真桑村江壱枚、高屋村江壱枚相渡有之候ニ付、右絵図面取寄吟味致し候処、当方役所ニ有之候扣絵図面と齟齬致し候廉も有之、右は其御役所ニも其節之御扣絵図面有之可申と存候間、当方扣絵図面と突合申度、其外右一件ニ付、書類并絵図面共有之候ハヽ御取調、早々御差越被下度、右之段可得御意旨、鍬三郎申聞如此御座候、以上
  七月朔日           戸沢 鯛次郎
                 森川 栄次郎
                 野々村弁十郎
 三和六左衛門様
 小寺  勇 様
 平塚武左衛門様
 山田  清記様
 鈴木弥一右衛門様
 加藤養左衛門様

城19−1−12          
御剪紙致拝見、如仰残暑之節御座候得共、弥御堅固被成御勤、珍重奉存候、然は大野郡数屋村@同郡北屋井村江相懸り、用水出入差起、去月中右用水引取方之儀ニ付、数屋村@嘆願申出、追々双方御取調被成候処、宝永三戌年上下真桑村と高屋村外弍ヶ村と水論之節、御裁許被仰付、其節取極絵図面、上下真桑村江壱枚、高屋村江壱枚御渡有之候ニ付、右絵図面御取寄、被成御吟味候処、其御役所ニ有之候扣絵図面と齟齬致し候廉も有之、右は当役所ニも其節之扣絵図面等有之候儀と御思惟相成、取調差進候様被仰越、御紙面之趣致承知候、右ニ付早速取懸り致吟味候共、御引合ニ相成候書類絵図面等一切無御座候、然ル処両日御報延引とも相成候儀ニ付、猶更取調候処、被仰越候通り本紙絵図面等可有之儀ニ候得共、余程年古キ事故、如何相成居候哉、見留相付不申候得共、被仰越候御次第ニ付、委細之儀は別紙取調差進候古書類之趣ニ而御承知可被成候、絵図面之儀はいまた取調出来兼候間、尚是上吟味いたし、見当候ハヽ早速可申進候、前書扣書付御見合相済候上、御返□度被下候、右之段御報可得御意、三人中被申聞如斯御座候、以上
  七月五日            川通役                   六  人

城19−1−18          
〔端裏書〕
「安永七戌年と相見候
   濃勢州川々御普請御用、殿被蒙仰候節
   江戸御留守居@の御用状      」
一筆致啓上候、烈寒御座候得共、 御三殿様益御機嫌能被遊御座、恐悦奉存候、次各様弥御堅固被成御勤、奉珍重候、
一去月十七日附四日市日切便同廿四日相達、御披見被下候由、
一右近将監様・能登守様江御請之儀、日積を以御先格之通相認、差出候様被仰下、承知仕候、右は去八日、右御両所様江御先格之通御請相認差出申候、
一御書付之趣ニ而は、石谷淡路守様・倉橋与四郎様江御聞合被成候様ニとの御事ニ付、此度従 御三所様御壱通御別紙御写之通、御状を以被仰遣候間、持参差出可申旨承知仕候、
一右御用人中江聞合之趣、左ニ被仰下、是又承知仕候、
一此度濃州・勢州川々御普請ニ付、御普請中三人中見廻御用被仰付候、右ニ付、淡路守様・与四郎様江委細之儀は被承合候様にと、松平右近将監様御書付を以、新庄能登守様より被仰渡候、右見廻被申候ニ付、御普請仕様帳面御渡被下候様被致度候、此段書中を以御頼申越候得共、猶又各様江も右之段御頼、可得御意旨、三人申付越候、右之趣申込、仕様帳面御渡被成候ハヽ、日切を以早々差上可申候旨承知仕候、
一今般御用被為蒙 仰候ニ付而は、御老若様方江御連札ニて御礼入可申哉、其御地ニ而去々申年、濃州・勢州川々御普請御見廻御用被為蒙 仰候節之御例難相知候付、此表御先格相糺、宜取扱可申旨承知仕候、右は右近将監様・能登守様江御請差出、其外御連札差出候御例は無御座候、左様御承知可被下候、
一去八日族御使者ニて、石谷淡路守様江御連名之御状持参、御用人呼出、右被仰下候、演説之趣も申達、御状御渡申候、左様御承知可被下候、
一石谷淡路守様より此方 御三名之御状壱封、今日到来仕候間、差上申候間、被差上可被下候、右可得貴意如此御座候、恐惶謹言
                 佐野   族
  十二月十日          藤牧  猪助
                 藤牧又左衛門
 土屋甚五兵衛殿
 三輪代右衛門殿
 加藤 津太夫殿
 藤田与次兵衛殿

城19−1−27          
 濃州本巣郡上下穂積村自普請願下ヶ之儀ニ付、 御届申上候書付

戸田采女正殿御預所濃州本巣郡穂積村之儀、年々堤内水溜ニ而水損仕候ニ付、長良川通川向附寄洲砂利を以、悪水路築流挟土手并増圦樋壱艘、自普請を以被仰付度、当春中奉行所江出訴仕候処、右川通之儀、拙者共懸り場之儀ニ候間、采女正殿@懸合有之次第、見分遂吟味、差障有無等相糺可申上旨被仰渡候ニ付、堤方役之者差出、并高木修理・高木監物・高木千之助家来為立会、見分吟味為仕候処、御料私領五拾三ヶ村差障有之候間、障村々得と吟味詰相伺候積り御座候処、吟味中右穂積村願出候は、差障有之候而は迚も出来申間敷候間、右築流挟土手自普請願は相止メ、堤内地低之場所江入土仕、増圦樋壱艘伏込、悪水路二筋ニ而吐出候様、模様替仕候得は、差障も無之候間、御手当定免ヲ以自普請被仰付度、願書差出申候、右模様替相願候場所は、内郷手限之場所ニ候間、御預所役所江相願可申旨申渡、築流挟土手自普請願相止メ候段は承届、采女正殿役人江願書引渡申候、依之御届申上候、以上
 (寛政二年)         辻六郎左衛門 印
   戌            高木 千之助 印
    九月          高木  監物 印
                高木  修理 印
  御勘定所

城19−1−28          
以切紙致啓上候、各様愈御堅固可被成御勤、珍重奉存候、然は上下穂積村自普請所願下ヶ之趣、御届書相認差進申候間、御落手被成、御存寄も無御座候ハヽ、御調印被成被遣可被下候、右為可得御意如此御座候、以上
 (寛政二年)
  八月廿八日        辻六郎左衛門
 高木  修理様
 高木  監物様
 高木 千之助様

城19−1−29       
御切紙致拝見候、弥御堅固被成御勤、珍重存候、然は上下穂積村自普請所願下ヶ之御届書御認被差越、致落手候、存寄も無御座ニ付、則致調印差進候間、宜御差出し可被下候、右為御報如斯御座候、以上
 (寛政二年)
  九月朔日           高木 千之助
                 高木  監物
                 高木  修理
 辻六郎左衛門様
城19−1−30          
村継之御切紙致拝見候、各様弥御堅固被成御勤、珍重存候、然は先達而被仰聞候上下穂積村自普請所願下ヶ御届書、六郎左衛門様@三人中へ御状被遣之、則差出申候、猶又可及御返書候間、宜御取斗可被下候、右御報為可得御意如此御座候、以上
 (寛政二年)
  九月朔日           藤田与次兵衛
                 加藤  孫助
                 小寺助左衛門
 横 井 庄 内様
 野々村弁左衛門様

追而得御意候、江戸表江御届書之内、村数五十三ヶ村と御認御座候、此間穂積村より差出候願下ヶ願書ニハ五拾弐ヶ村と御座候、勿論障村々願書吟味致し候処、五十弍ヶ村ならてハ無御座候、猶又宜御糺シ江戸表御差出御座候様致度、此段各様御内々得御意候、且又右御届書之内、両穂積村@差出候願書、大垣役人へ御引渡と御座候ハヽ、其御役所へ差出候願書絵図等、被成御渡候や、左候へハ当役所へ差出置候願書等、両穂積村相渡候様可致候間、 ━━━━〔最後一行写真消ユ〕

城19−1−31          
以村継致啓上候、各様愈御堅固被成御勤、珍重奉存候、然ハ先達而得御意候上下穂積村自普請所願下ヶ御届書并御状、御三所様江六郎左衛門様@被遣候間、差遣申候、宜御取斗可被下候、右為可得御意如此御座候、以上
 (寛政二年)
  八月廿八日         野々村弁左衛門
                横 井 庄 内
 小寺助左衛門様
 加藤  孫助様
 藤田与次兵衛様

城19−1−46(F5-1269〜1273) 
以手紙申上候、追て暑々趣候得共、益々壮康御家内御無異事候や、承度存候、当方相替儀なく候、扨濃州之水難逃候為、去辰年被仰付候御普請之儀ハ、全多良・笠松之吟味ニ無之候歟、いつとなく右御普請之目論見は、各御両役所之御吟味違と申に落、大榑川之願も右之意味故、久々滞候趣等、兼而御物語申承候、去年竹城州方在府ニ付、美濃之水場近来別而難所相増候趣、只今度之大榑自普請相叶候ニ付而も、若此一事ニて悉水難逃候様ニ、神尾殿なと被存取候ては以之外違却なる儀、是ハ水場之内ニも急務ニ而、此願相叶候迚、美濃一国の水難を逃候筋ニ而は曽て々々無之、以後猶更夫々之御普請不被仰付候而は却而御益薄ク、病躰全快之筋へハ不参候との旨趣なと具に若州殿へ申解、何とそ此上弥御吟味有之様致度旨をも申入、彼是取繕候処、兎角去辰年の御普請ニて、四五拾年も御手指無之積ニ被仰付候事候得は、此上御入用を以被仰付儀はいか様ニ願有之候迚も、難被申達不被成事候間、夫共是非ニ難被捨置筋ニも候て、右辰年ノ御普請は全吟味違と申事を、多良・笠松よりおれ可申達有之候ハヽ、又勘弁被申達方も可有哉ニ候間、左様之筋ニ各方へ御尋も可申や、無糺候てハ何れニも取扱難被致筋之旨、若州被申候由ニ候、しかれとも右辰年御普請御吟味之訳等、各一向御存知無之、全関東切の御取扱ニて御沙汰ニおよはれ候儀を存なから、各方よりおれて御申達と□□筋ニ御内談申義は何れニも難致儀、左候得ハいまた時節いたらさる儀と無是非事ニ存候旨、城州@及挨拶置候由、就夫若州殿右之存取ニてハ此以後若シ模様も付、御普請御吟味有之節、辰年の一事各御不念之筋ニ御老中様抔へ相響キ、若いかかの御沙汰等有之候而は、近比以御心外之儀、不大形気毒なる事ニ候間、此様子蜜ニ申入□と、城州方被申ニ付、如斯御座候、御相司方へも此段御伝達御申相可被成哉、何とそ御考、右辰年の御吟味、各聊御存知無之儀との旨趣、具に書記手筋を以□□□なとへ能々御響かせおき可被成哉と存、旁得御意度申上候、
  □月十九日

城19−1−47          
濃州・勢州・尾州川々年々川床高ク罷成、御料私領村々百姓水損難遁候ニ付、悪水落等之儀追々申出候、就夫去ル辰年御手伝御普請被仰付候砌、卯年御普請役被遣、目論見等被仰付、右目論見之通、翌辰春御手伝ニ被仰付候、其節私共右御普請中、常式之通見廻り候様、御勘定奉行@被仰聞候ニ付、存寄等不申上、御手伝方并御附被置御普請役江も、精々普請入念仕様帳之通仕立候様ニ申達候迄ニて、御普請中場所へ見廻リニ罷出候、全躰川床高ク、勿論海面桑名城下前大分寄洲有之候ニ付、右御普請ニて□程水難相遁シ候義ニも相見へ不申候、然は此上水場村々水落宜御普請仕形も可有御座候間、自普請之儀被仰付候様仕度奉存候、尤去午年御料私領村々自普請相願候長良川通猿尾弍ヶ所、大榑川通喰違洗堰壱ヶ所、伺之通被仰付候ニ付、願村江申渡候処、普請目論見之儀出来仕候所、願村々当年ハ右普請故益も□□由ニ相聞申候、左候へハ此上水場村々御普請被仰付候ハヽ、大分之水場村々水難相遁、百姓相続可仕と奉存候、此上御普請被仰付候付而は、追々普請之仕形等吟味仕候と可申趣、御聞達被為置候様ニ仕度奉存候、以上

城19−1−48          
以切紙致啓上候、向暑候得共、弥堅固可被成御勤承ヵ度奉存候、
一大榑川自普請儀、段々出水等故及延引、拙者共両度見廻リ、家来共場所附置、随分無油断申付候、石堰存之外手間取、漸々去ル十八日迄致皆出来寄、廿一日御立請見分仕候、先達て次郎九郎連名以、奉行衆へ出来御届申上候、貴様へは委曲可得御意旨候条、承知相被成存候、
一此度大榑自普請、正月@当月迄笠松堤方役人、且又此方家来附置候、先年も堤御普請之外伊自良谷山抜之砌、御国役は勿論、拙者共家来附置候得共、御扶持方等ハ下之来候、然共此儀は笠松勤役之衆中@被申上候而、其上被下之候、拙者共@直申上候儀無之、殊ニ先々@川通御用筋ニて、家来罷越候得共、何方差出ニて村役ニ申付来候得共、近年御入用御吟味故、拙者共心得ニて別ヵ日数相渡候御用筋は自分賄ニ仕候儀、併少身之拙者共、毎度自分賄と申義も難仕奉存候、今度も先々村方入用をいとゐ、自分賄以村方入用申付候事無之候、御国役以来、川通ハ取払、其外□方も御□見入置候出来共之通、自分入用以相賄候事例之様ニ相成候而は気悪ヵ奉存候、夫となく宜御勘弁之上被仰達、拙者共御家来迄も、御扶持方等にても被下候様ニ致度存候事ニ御座候、可然御勘考被成宜取為候、かくの如くニ御座候、
  五月

城22−6−27         
未得御意候得共、一筆啓上仕候、各様弥御堅固被成御座、珍重奉存候、然は拙者知行所濃州海西郡者結村之儀、長良川通ニ而堤長弍百八拾間余有之村ニ而、川並ニ高四拾石余有之、段々川欠ニ成、只今は少分ニ罷成申候、先年四拾石余有之節は、右畑@川中江百間猿尾と申唱、猿尾弍ヶ所積篭弍ヶ所有之候て、宝永二年酉ノ年二月、高木五郎右衛門殿・同治郎兵衛殿・同留次郎殿・辻六郎左衛門殿川通御吟味之節、拙者知行所者結村百間之猿尾と唱候弍ヶ所之猿尾、七間半宛有之、積篭弍ヶ所有之、枠打捨杭等は無之旨、其節右御四人様江書上も仕候事、尤私方江も其砌申越候扣も有之候、勿論両御役所江も右之御扣も有之候由、然処其後小身之私も折々百姓共及水除普請相願候得共、右繕普請等申付候事も無之、困窮之百姓共故自普請も不致、段々川欠ニ相成申候、然共拾五年以前子ノ年ニも右場所少々普請仕候、其後五年以前戌ノ年ニも修覆普請申付、夫@年々少々宛笠置繕為仕候、今年も右猿尾少々取繕普請為仕候得ハは、川向辻甚太郎殿御支配所小薮村@相障之旨、両御役所江新規之由申立候付、其元様方御役人、辻甚太郎殿御役人立会、見分被仰付、新規之事候間、取払候様ニと者結村百姓共江被仰付、百姓迷惑仕候、百姓共申候は、段々普請怠り、先年書上ヶも両御役所様ニも猿尾積篭御帳面も有之候、古来@有来ル普請場所、今更新規之事之由小薮村@申上候迚、右猿尾取払候様ニ被仰付、殊ニ御威光を以取払可申旨之証文を被仰付、迷惑仕候旨、依之百姓共江戸表江御訴訟ニ罷出可申旨、私方江再三申越候、先差留置候而、此度御両所様江御願申進候、先年之書上も御再吟味被成、古来@有来ル之儀無紛義ニ候間、小薮村納得被仰付、古来帳面之通普請被仰付、此度之猿尾普請其侭被差置被下候様ニは罷成間敷候哉、偏御願申上候、尤新規普請仕候儀ニ候は、私方ニ而も急度可申付事ニ候得共、新規ニ而無之猿尾積篭普請怠り候迄ニ而、宝永二年之御改之帳面も有之事ニ御座候、且亦者結村田畑囲損徳かゝハリ仕筋ニは曽而以無之、囲堤之為ニ仕候得は、居村は不及申、輪中之為ニ候間、小薮村江も不障程普請被仰付可被下候、先達而も甚太郎殿江は、右之儀ニ付御文通も仕候、濃州川通之義は其元様方御懸り之義ニ付、如此御座候、何卒再見分をも被仰付、宝永年中御吟味之御扣可有御座候間、甚太郎殿御相談之上、堤危も不成様ニ支度、右之義御願申上候、恐惶謹言
                日根野左京
  九月廿九日            高信 花押
 高木十市郎様
 高木 求馬様
 高木 内膳様

城22−6−28         
去ル廿四日乍御報貴札相届、致拝見候、寒気甚敷御座候へ共、各様弥御堅固被成御勤候由、珍重奉存候、先頃見分之趣、各様ニも絵図書付を以被仰上候処、御尤ニ思召候由、此方も御同事御座候、
一者結村新猿尾之義、見分之趣被仰上候処、先達而者結村彼是難渋仕候、其上左京様よりも何角と六ヶ敷被仰出ニ付、此上得心無之、江戸表へも罷出候義難斗候間、来春ニ至一通御立会、御直見分之上被仰渡可然旨、此度為御相談甚太郎様@御家中へ被仰遣候間、御話被進候、御差上可被下候、
且又飯木村・鷲巣村論所之義、先頃御引合申候通、其御役所ニ而被仰渡候由、昨日鷲巣村庄屋とも此方へ罷出候、御同様被申渡候、奉畏候由申候、飯木村いまた参り不申候、今日ニも可参哉ニ奉存候、此方ニても同事可申渡候、尚至来春追々得御意被申こと可有御座候、恐惶謹言
                川添 幸左衛門
  十二月廿九日
   T            加藤甚五右衛門
 中嶋領左衛門様
 赤生斎右衛門様

城22−6−29         
貴札致拝見候、甚寒之節御座候へ共、弥御堅固御勤被成由、珍重奉存候、拙者共も無事罷在候、然は川通所々立会為見分、御役人中家来共此間相廻、村々見分之趣覚書并絵図面を以被申上、委細御承知被成候由、拙者共承知仕候、
一者結村新猿尾、再見分吟味之趣、御尤思召候由、日根野左京方へ、貴様拙者共連記を以書状指越申候様、見分役人申合候へ共、先達而者結村之者共彼是致難渋、其上左京方@も何角六ヶ敷申来候付、此上得心不仕江戸へも罷出、相願可申儀も難斗御座候間、為念来春ニ至御立会申し直キ見分、其上ニ而申渡可然思召之由、拙者共も御同事奉存候、
一飯木村・鷲巣村論所并ニ津屋村・志津村・汰上村鷲巣川通谷先地土浚、且又鷲巣川・伊尾川落合之所附寄洲浚、右何れも見分之趣御承知被成候由、飯木村・鷲巣村ハ其御役所へ被呼被仰渡、其上此方へも可被遣候旨被仰聞、仕承知候、
一羽根村・駒野村谷先浚之儀、例之通高須・大垣役人方江之書状、御役人中家来共@差紙御承知被成候由、猶々来春追々可得御意候、恐惶謹言
  十二月廿九日          御三人 扣

  辻 甚太郎様

城22−6−31       
   乍恐以書付奉願上候
一私共村方先達而御吟味被成下候自普請一件之儀、障村々有之候ニ付、熟談仕度、今十日迄日延御願申上候所、願之通御聞届被成下、難有奉存候、則右村々江懸合仕候処、数多之村々故、内談行届兼申候、尤有無之儀、当十六七日迄ニ返答可仕旨申之候間、何卒廿八日迄御日延被成下候様奉願上候、右願之通被仰付被下置候様、幾重ニも奉願上候、以上
              上穂積村  戌              庄屋   八月             正右衛門 印                 年寄                  縫右衛門 印                 百姓代                  安右衛門 印              下穂積村                 庄屋                  一郎左衛門印                 年寄                  儀  七 印                 百姓代                  弥右衛門 印
  多良  笠松    御役所

城23−1−13         
今月十六日之貴札相達、拝見仕候、各様弥御堅固被成御座、珍重奉存候、然は先達而申進候勢州桑名郡古敷村堤切所御普請所、今月十三日御家来中堤方役人立会見分被致、絵図書付を以見分之趣御承知被成候処、右切所上下之川幅@十九間引込、堤築立候ニ付、水行之障決而無之儀と思召候、且又障村々其御地江ハ不罷出候、此上訴出候共御取上ケ無之様、御家来中江被仰渡候由、委細御紙面承知仕、大慶奉存候、障村々近日此元江呼寄、立会見分之趣可申渡候、右為貴報如斯御座候、恐々謹言
               滝川小右衛門  十月廿一日            貞寧 花押
 高木重一郎様
 高木 求馬様
 高木 内膳様

城23−1−24          
今月十六日村継之貴札相達、致拝見候、各様弥御堅固被成御勤、珍重奉存候、然は先達而古敷村江御立会、御大義千万奉存候、御見分之趣被仰上候処、切所上下之川幅@十九間引上築立候ニ付、決而相障筋無之様被思召、其趣小右衛門方へ被仰遣、大慶被致候、此度貴報被遣候御□ヶ可被下候、障村々近日此元へ呼寄、見分之趣可申渡旨被申候ニ付、近々申渡候積ニ御座候、左様思召可被下候、猶其内以書状可得御意候、恐惶謹言
               棚橋辰左衛門  十月廿一日            秀義 花押               赤生斎右衛門                   常治 花押
 加藤甚五右衛門様
 川添 兵左衛門様
追而茂右衛門殿@御加筆之趣忝奉存候、猶又宜奉願候、

城23−1−25       
貴札致拝見候、冷気之節御座候、弥御堅固被成御勤、珍重奉存候、然は御支配所勢州桑名郡上之郷輪中之内、古敷村堤、先月五日之就洪水、切所ニ罷成候ニ付、堤方御役人被差遣、水留御普請有之、其上貴様御見分被成候所切所之義、大分之場所ニ而、元之通築立候而は御入用多相懸り候ニ付、此度は面側江少々繰出候之積御目論見、御勘定所へ帳面被差出候、此段先達而可被仰聞処、新規之場所ニ而も無之、殊更古堤切所繰出所、前後之堤@ハ引込有之、水行之障之沙汰ニ不及義ニ御座候間、先達而右之段不被仰聞候、然所上村々之内、障申出可申風聞御聞被成候、此方ニ而風与承候ハヽ、如何之儀と可存哉、為念被仰聞候、尤此度繰出し堤築候而も、前後之古堤ニ見合、拾間程引込之故、決而水行障ニは不罷成儀と御見分被成候、元之通築立候而は御入用五百両余、今更可被成候様認ヵ之候、大儀御失墜ニ罷成候事故、御勘弁之上、右之段江戸表江御伺い被差遣候由、委細御紙面之趣致承知、相心得申候、恐惶謹言
                  高木 内膳
  九月              高木 求馬
                  高木重一郎
 滝川小右衛門様

城23−1−27          
一筆啓上仕候、各様弥御堅固被成御座、珍重奉存候、然は去年求馬・滝川小右衛門申上置候濃州・勢州川浚願村々、当年五月中降続候大雨ニ而度々大水有之、別而川床高成、水落悪敷、例年無之深溜りニ而致水損、村々迷惑仕候ニ付、右川浚御普請之義、是非とも当冬来春迄之内被仰付被下候様、再応願出申候、村々水落差支、困窮仕候段は、委細小右衛門方@申上ニ而可有御座候、右為可得御意如此御座候、恐惶謹言
                  高木 内膳
  七月              高木 求馬
                  高木新兵衛
 神尾若狭守様
 木下伊賀守様
 水野対馬守様

城24−1・2          
 〔表紙〕
 「   慶応二寅年  方県郡河渡村地内字古城御普請所之儀ニ付、加  納領村々@差障願出、右ニ付要用為、笠松江出  役中手日記     三月十六日@      山田清記 」
                        
     三月十五日
一今暁七ツ半頃、笠松@仕立之飛脚到来、御用状左之通、以剪紙致啓上候、如仰春暖之節御座候処、貴様弥御堅固被成御勤、珍重奉存候、然は方県郡河渡村地内字長良川通古城、圦樋悪水吐浚方ニ付、畑面同様築上候趣、加納領江堀村外九ヶ村差障候間、役場添翰を以惣代共願書、墨引絵図相済、去ル九日願出候ニ付、当方へも同様願出候趣申立候ニ付、右如何取斗候哉、御同様御取斗被成度候ニ付被仰越、致承知候、此段鍬三郎江申聞候処、右は少々入込候次第も有之場所、掛り御勘定方御仕立被成義ニ付而は、御同ヵ人共打合之上取斗候積、右ニ付御相談申上度次第も有之候間、乍御苦労被仰合、明十六日御出張御座候様致度、右之段御館方可得御意旨鍬三郎申聞、如斯御座候、以上
  三月十四日           戸沢鯛次郎
                  横井兵八郎
 三和六左衛門様
 三輪 源六郎様
 三和  為司様
 鈴木弥一右衛門様
 加藤養左衛門様
 山田  清記様
追而横井兵八郎外両人江御掛合之処、拙者共御普請持場懸り候ニ付、致加除及御報候、以上
右之通飛脚持参ニ付、請取左之通、
   覚 
 一御用状 壱通
 右慥ニ請取申候、以上
                多良
  三月             川通方
    十五日            役所 印

右之通御用状出来ニ付、  御三殿様江及言上候処、御年番ニ而此方様@清記出役被仰付、北様@鈴木弥一右衛門出役被仰付候事、
一明十六日笠松江両人出役被仰付候ニ付、為御用談として御年番江御立会
                三和 六左衛門
            出席  鈴木弥一右衛門
                山田   清記
一明十六日出役ニ付、先触左之通取調出ス、
   覚
 人足 八人
    内 駕篭弍挺 六人
      雨荷弍荷 弍人
右は川通御用ニ付、我等共儀、明十六日暁七ツ半時多良出立、笠松迄罷越候条、書面之人足無遅滞御差出可被申候、尤上下四人之支度、所々有合候野菜一汁壱菜ニ而取賄、用意置可申候、其外馳走ヶ間敷儀、一切有之間敷候、此先触早々順達、留り村ニて我等共着之上可被相返候、以上
  三月十五日         山田  清記 印                鈴木弥一右衛門 印
   人足和田郷迄差出さセ     上原村   可被申候、          牧田村                  室原村                  綾野村                  西結村                  笠松迄                 右村々庄屋                    年寄 中
                    百姓代
 「          多良  川通         御役所   先 触         鈴木弥一右衛門  御用           山田  清記                  上原村始」
                        
右取調、上原村御料所庄屋江為持遣ス、
一北様江罷出、鈴木面会、御暇乞御届之儀申上候、
一西様江鈴木・山田同道、御暇乞御届参上可申之処、鈴木差懸り候儀出来ニ付、山田壱人罷出、御取次江□□いたし、同道罷出候振合ニ而、御取斗可被下願置、
                 御取次                   栗田源吾
一六郎左衛門面会、御用談いたし引取、
一御前江被為召、明日出役ニ付、夫々御用談被仰候事、
一大殿様御□□様江御暇乞、□□を以申上候、蒙御意候事、
一御三殿様共、御雑用壱歩ツヽ請取、

     三月十六日 晴天
一暁六ツ半時、鈴木・山田同道出立、
         鈴木  拙者人足鍛冶屋村@出ス、
                  供 孫四郎
         山田  同断、上原村@出ス、
                  供 専 助
一和田郷人足継立候事、
一室原村人足継立、村役人出迎案内、
一四ツ半時頃綾野村江着、
          休     庄屋
                  新五左衛門
一弁当済、人足継立出立、
一西結村人足継立、
一笠松村七ツ半時頃着、
          旅宿 木屋伝右衛門方
一堤方役江案内、手紙ヲ以左之通申遣ス、
一以手紙致啓上候、春暖之節御座候得共、愈御安泰被成御勤、珍重奉存候、然は加納領出願之儀ニ付、御面談之儀被仰下候ニ付、小生共只今当ママ着致し候、 御陣屋江罷出候而、宜御時刻御差図可被下奉願候、右之段御案内、御願旁如斯御座候、以上
   三月十六ヵ日
「  横井兵八郎様      鈴木弥一右衛門  戸沢鯛次郎様      山田  清記  」右之通伝右衛門持セ遣候処、御叮寧被仰下、忝奉存候、我等儀も明日出役いたし候間、早朝之内御沙汰申上へく候間、陣屋江御出可被下旨申参候、
一御勘定森□太夫様御止宿ニ付、両人申談当、伝右衛門案内ニて罷出、尤野駈ヵヶ装束、手札伝右衛門ニ為差出、
  「 高木 弾正    高木 監物 家来    高木達三郎       川通役    鈴木弥一右衛門              山田  清記 」
                       
一右手札差出候処、御取次中村熊太郎被罷出、御玄関@御使者之間江通、御口上申置、
春暖之節、弥無御障被成御勤、珍重被存候、御用ニ付、私共当地江罷出申候、若御止宿□居候ハヽ、時候御見舞可申上□□□被申付候間、罷出申候、御序之節、宜御取繕被仰上可被下候、私共御伺も宜御願申上候旨申置引取、
一右相済引取、懸り御普請役田中金一・岩上桑右衛門旅宿江罷出、木屋伝右衛門ヲ以手札差出候処、只今取調物ニ取懸り候間、御用向御座候ハヽ、暫ク御扣可被下ニ付、別段御用も無之候、小子共当所罷出候ニ付、時候御尋居之事ニ御座候、御序之節宜と申引取、
一御目付 今般御用ニ而、大坂表江御登り被成候ニ付、右ハ岩田鍬三郎様御子息之由、御徒士目付・御小人目付附添之由、尤明五ツ半笠松御出立之趣、御本陣は小見山又吉方之由、伝右衛門申聞候、
一四ツ時休息候事、

     三月十七日 晴天
一今朝御陣屋@、只今御出被成下旨使到来ニ付、伝右衛門申出、両人直用意致し、羽織袴着用罷越、御玄関御取次案内ニ而例ヵ席江通り、火鉢茶莨盆出候、
一横井兵八郎様江御面会之儀申込候処、程無く被罷出、御三所様@鍬三郎様江御口上、左之通申ス、
春暖之節御座候処、弥御安泰被成御勤、珍重奉存候、今般御用談之儀被仰下候ニ付、小子共指出候ニ付、時候御見舞被申述候旨、
右申述、横井@ 御三所様江御伺申上、拙者共@御郡代様御伺申出、相互ニ挨拶いたし、同役伝言申述、
一御用談、左之通、
加納領惣代共@願出候河渡村築立一件、定而御同様之御儀ニ御座候旨ニ而、願書絵図面御見候ニ付、当方@も同様為見候処ヵ、同様候得共、笠松江ハ口上書之様成も出し候得共、当方江ハ無之候事、右場所之儀、当方ニても河渡村ニ而も急度致し候、古形之書類有之候之、右様申立候は法外之事と存候、加納領村々@申立候は古形有之候得共、在来候場所有之候て、私共へも相談呉候事と存候旨申立候ニ付、右ハ十年七年以前有之候義を取繕候ニ、指障候儀ハ不都合之旨申談示候旨、横井被申、右押而申立候ハ、御勘定方御普請役私共を合手取候儀と存候、加納郡奉行安地ヵ新八郎にも面会候処、是ハ利治ヵとして何共不申候得共、何分村方承伏不ヵ仕候旨申立、彼是と六ヶ敷事と存候、右ハ御勘定方仕立被申候御普請所之儀ニ御座候間、私ヶ儘ニも不被成候間、何分是@打合として三柳村迄出役致候、勘定存寄も可有之候間、各様ニも三柳村江御出張有之候而も、御存之村方故、御旅宿も不都合ニ御座候間、当所ニ御懸留被下候而、私共明後十九日昼頃ニハ帰陣いたし候間、乍御苦労夫迄御待可被下候旨、横井江申候、引取懸ヶ御玄関江横井見送り被申候事、
一引取懸ヶ堤方筆頭三人、戸沢鯛次郎江時候見舞として玄関江罷出、手札差出申置候事、
一横井宅江参り候処、兵八郎在宅いたし候間、御通り可被下旨ニ付、相通面会、晢咄合候内、毎年横井被下候御目録三百疋申処、何卒銀弍枚ニ御増之段奉希候旨申候間、引取之上、同夜可申談候旨申、引取、

     三月十八日 晴天
一無記事、

     三月十九日 晴
一横井一昨日申聞候ニハ、今日昼過ニハ引取候趣申聞居候儀ニ付、八ツ半頃迄見合居候得共、何之沙汰も無之ニ付、左之通手紙相認メ、三十郎ニ帰宅之様子聞合之為、為持遣ス、
此頃之御出役、御苦労千万奉存候、御帰宅被為在候ハヽ早々参上、貴宅此先御様子相伺度奉存候、御帰宅被為在候而□□□御聞之程奉願候、先々御帰館之御様子奉伺候、余は拝顔之節千万相伺度奉存候、仍て以上
   三月十九日
  「        鈴木弥一右衛門   横井兵八郎様           山田  清記 」    〆右遣し候処、横井引取居、三十郎ニ口上ニ而申越候ハ、漸先刻引取候得共、取込居失礼仕候、今日ハ甚取込居候間、明朝御案内申上候ハヽ、陣屋江向御出可被下旨申越候ニ付、今日宅江罷出候儀見合候事、

     三月廿日 曇
一今朝四時、御陣屋@只今御出被下候旨使到来之旨、三十郎申出候ニ付、直様両人支度いたし、羽織袴着用、木屋案内ニて罷出、名札為差出候処、御取次案内ニ而例席江通、茶莨盆出候、御取次江横井兵八郎殿江面会之儀申込候事、
一暫過横井兵八郎・戸沢鯛次郎罷出面会、相互ニ挨拶いたし合、早々御用談左之通、先方@此間御打合申置候加納領一件、御勘定方江打合候処、右場所之儀、今度御入用を以御普請被仕立候儀ニ付、取払と申儀は相成間敷趣申之、且障之儀ハ古形取調、多良・笠松@利解被及、夫ニ而も承服不致候得ハ、江戸表江差出可被成候、拙者共相心得居、取斗可申旨御勘定申居候間、此段御承知可被成旨談示有之、右願書類も数多被見、并当相方之絵図も被為見候ニ付、絵図ハ貸受、写取申度旨相頼ミ、旅宿ニて写取、
一右願書之儀は、河渡村@差出候儀ニ付、各様も右村江被仰付、御取置可被成方宜と談示有之、夫々長々御用談致し候事、
一右相論之儀、明日御引取懸ヶ、一応御見置可被成方、拙者共之内、壱人出張可致候間、御同道見分可致旨談示有之、尤之儀ニ付、明日御同道、一通見置可申旨相答、
右相済、例之通金百疋ツヽ被相贈候旨ニ而被差出候ニ付、御礼之儀頼ミ置、只今郡代御目ニ可懸旨申居候間、一応可相尋旨ニ而両人共被引候事、
一暫過御取罷出、只今御目ニ可被懸候間、御通被成候旨申候ニ付、同人案内ニ而御書院江罷通り、  鍬三郎様御逢、御直答
御三人中様弥御勇健被成御座、目出度奉存候、此間は御叮寧被仰下、忝奉存候、右御礼之儀取繕御頼□□被仰、今般ハ河渡村字古城築出一件ニ付、御出張御苦労存候、右一件も御勘定方も打合候処、全古形有之候場所之儀ニ候間、取払と申儀も不参候、村方呼出、立会ニ而厳敷申付候得は□□無之候得共、夫ニてハ跡ヵ之如キも有之候間、先内々ニ而加納郡奉行役人呼ヒ出シ、立ヵ会之姿を以、村方江役場@利解被聞候旨為ヵ致候間、此段  御三人中様江宜被仰上候之様、各方御苦労ニ存候と被仰、御引被遊候事、
右相済、御使者の間江引、退出、
一御陣屋@引取懸ヶ、元〆三人宅江名札差出、見廻候事、
一旅宿江引取、河渡村役人呼出候処、直様罷出候、
右罷出ニ付、其村地内字古城築出一件ニ付、拙者共罷出居候今、御堤方江面会およひ候処、右場所古願書類等も有之、戸沢氏江差出候趣、拙者共も同様古形書類写差出候旨相談居候処、
奉畏候、何れ今夕暮迄ニは写取、差上可申候、私共村方之儀ニて、御出張被成下候儀ニ御座候歟、夫ハ何共恐入奉存候、何分 ━━━━〔一行写真不明〕
一横井・戸沢@借用いたし候絵図写取候事、
一明日引取懸ヶ河渡村、右場所見分之積、左之通先触出、
   覚
一人足八人
 内駕篭弍挺   六人
  雨懸ヶ弍荷  弍人
右は川通御用ニ付、我等儀明廿一日朝五ツ時笠松出之、河渡村見分之場所相済候上、多良江引取候義候間、書面之人足在所差出、
笠松会所 休河渡村 山田 ─────
美江寺村 休ヵ西結村 鈴木 ─────
 綾野村   室原村  □沢田村
一昼支度相済候処江、戸沢鯛次郎@左之通手紙到来、
過刻申失敬御免可被下候、遠路之処態々御出張被下、何共御苦労奉存候、小子儀、明日御同道致し候様被申付候間、左様御承知可被下候、河渡村役人出合候ニ付、御同様見分之儀申渡置候間、左様御承引、且明日は右場所見分済、小子儀は日帰り之積、貴所様方は如何被成哉相伺候、其段河渡村江御申渡御座候方、可然と奉存候、
一朝五ツ半時頃出立之積御座候間、此段御承知可被下候、右之段申上度、早々如此御座候、已上
  三月廿日
 「鈴木弥一右衛門様
            戸沢鯛次郎
  山田  清記様        」    
右之通申参候ニ付、御在宅候哉奉存候処、在宅之由ニ付、左様なれハ別段御返事ハ差上不申、拙者共従是御宅罷出候間、引取之上宜と使江申帰ス、
一両人同道戸沢宅江参り、面会御用談、左之通、
明日@ヵ貴兄御出役之趣被仰下、御苦労千万奉存候、何分よろしくと挨拶致し候処、何分右場所一通り見分之上、加納役人江内々面会いたし、役場@利解為致、請猿尾ニ而も一ヶ所為致候カ、又ハ内取ヵ之長猿尾ニても取繕セ候而、事終セ候方ニ加納役人江相談等致旨被申、尤右場所之儀ハ、地頭役人ハ利解之趣承知いたし居候得共、何分村方承伏不仕候由ニ付、□之とハ裏表ニ御座候と□□迄も申合、明日出役之儀も旁々談示置、旅宿江引取、
一七ツ時頃、山田壱人横井宅江参り、面会之上、明日河渡村江出役之儀も談示候事、
一享和三絵図面之儀、水野植ヵ次郎様江差上置候、何分同年改絵図之内、河渡村@墨俣迄之処之絵図一枚不足候間、御取調之上、御返却有之候様いたし度段談置候処、御尤至極、急キ吟味いたし、御返却可申様可致候と談等有之、
清記@
一先般監物廻村之砌、鈴木弥一右衛門・加藤養左衛門附添、御陣屋江相伺候節、御目録頂戴不仕趣、且小子ハ貴兄御取斗を以御目録頂戴仕、難有奉存候、同役之儀ニ候得ハ、不同御座候てハ、若年之小子抔同ヵ役之儀ニ御座候間、風□□もいたしにくいよふニ御座候間、何分御取斗を以同様頂戴仕候様、御取斗頼ミ候処、承知之旨被相答候事、
横井@
一私儀、御三人中様@例年頂戴御歳暮御祝儀金三百疋之処、何卒此間御頼申候通、御増方之儀、御頼ミ□□□被申渡候事、
山田@
引取之上、同役共談示いたし、御答可申候旨相答置候、
横井@
一弾正様@ハ、例年松茸頂戴いたし候、何卒御取斗を以、御両所様@も拝領被仰付下様相頼まれ候ニ付、前同断答置、
右相済、引取、
一河渡村四郎右衛門、先刻申談置候古形之御普請被仰付候仕様帳持参、差出申候、但四冊、
一文政三辰年御普請出来形帳写 一
一文政九戌年同断写  一
一天保九戌年同断写  一
一天保十一子年同断写 一
〆四冊
一今晩木銭米代、三月十六日@同廿一日相払、

     三月廿一日 雨天
一今朝戸沢@駕篭持参之儀、手紙ヲ以申来、返報遣候、
一横井@清記内状ヲ以、昨日咄置候鈴木・加藤江被下落之御目録之儀ニ付、手紙ヲ以申来、返却遣候、
一五時出立、笠松村端迄木屋伝右衛門見送ル、
一出立懸ヶ、鈴木供孫四郎戸沢宅江只今両人共々出立、道中ニ而御待申居候段申遣ス、
一笠松村端ニて戸沢を待合候処、暫過罷出、同道いたし候事、
一四ツ半過河渡村江着、旅宿迄参り候而ハ、見合場所迄又戻し候ハ而ハならぬから、渡船場@古城江堤通見登り、古城出堤江三人同道参、法横厚高等間棹ニ而相当り、当年御普請出来形帳ニ引合、見分いたし候処、取違無之、且又元之形形土之分、聢と古形有之、先々方并鼻之方一円古形有之、
一右相済、旅宿庄屋長兵衛方江着、戸沢・鈴木・山田三人共合宿、
一弁当済、出立八ツ時頃、
一弁当中場之処江、笠松ニ罷在候紀州御役所詰弍人、国許江罷出、笠松江引取懸ヶ之趣ニて、戸沢用事有之候趣ニて被参、相互ニ挨拶いたし合候事、
一当寅年御普請之有形
 石根付長七拾六間半
   内
  元之方
         平均 法壱丈七尺
   長拾五間
            厚壱丈
  中之方
         平均 法壱丈壱尺
   長弍拾壱間
            厚壱丈
  先之方
         平均 法九尺五寸
   長弍拾九間半
            厚壱丈
  鼻之方
         平均 法六尺
   長弍間
            厚壱丈
右相済、八ツ時出立、人足継立村役人見送り候事、
一美江村人足継立候事、
一十九条村ニ而、河渡村立休候処ニ而、戸沢@談示有之候、
牛牧輪中古ル木預り書付取調、早々笠松役所江可差出旨、村役人呼寄申渡置候事、
一七ツ時頃、西結村着、
        休  南ヵ泰平方
城28−1−1         
@〔表紙〕
「  弘化二巳年  大川通御取払場見分出役迄之日記       并出役中触書付等有之           年番  平塚   習   従八月         平塚武左衛門 」                       
A
  弘化二年巳七月廿八日
一当秋大川通御取払場為見分改、笠松堤方立会、年番習出役候ニ付、見習武左衛門儀も為見習、同道候様被 仰付候間、則御先例相糺候処、安永七年加藤□太夫出役之節、悴要蔵為見習出役、文化八未年加藤孫助出役之節、悴貢為見習出役、文政六未年伊東幾右衛門出役之節、三和四郎太夫為見習出役之筈之処、幾右衛門差支、未年繰合、文政七申年幾右衛門出役之節、四郎太夫同道出役、天保八酉年三和六左衛門出役之節、勘兵衛為見習出役、天保九戌年加藤加藤太出役之節、鈴木茂八郎為見習同道出役、右等之例を以、習悴武左衛門儀も今般同道出役被仰付候事、
右ニ付、御両所様川通役江、左之通相談申遣候事、

以 手紙致啓上候、然は当年大川通為見廻、拙者出役之節、平塚武左衛門儀為見習、各様へも及御相談致同道候様、大内蔵様被仰付候共、其 御許様方思召も不被為在間敷哉、何分宜御取斗可被下候、此段可得御意如是如是UV御座候、以上
  七月廿八日
 三和六左衛門様
 小寺 勘兵衛様          平塚  習
 鈴木弥一右衛門様
 加藤養左衛門様
B
七月廿九日
御手紙致拝見候、然は当年大川通為御見廻、貴様御出役之節、平塚武左衛門殿為見習、拙者共へ御相談之上、御同道被成候様、 大内蔵様被 仰付、此方様方思召も無御座哉、御紙面之趣則申上候処、何も思召無御座、委細御承知被成候、右御報可得御意如斯御座候、以上
  七月廿九日
追而此間之川通書類、慥ニ御預り置候間、左様□□□可被下候、以上
                 三和六左衛門  平塚 習様          小寺 勘兵衛                 鈴木弥一右衛門                 加藤養左衛門
C
一大廻り出役之儀、例年之通笠松堤方へ向、相談申懸候哉、案紙を以 御両所様江も相伺候処、御同意被為在候ニ付、村継八月朔日差出候事、
以手紙致啓上候、秋冷之節御座候得共、各様弥御安全被成御勤、珍重奉存候、然は例年之通、大川通御取払場立会為見分改、出役方御相談之儀、別紙案文之通、堤方へ村継差出候ニ而哉奉恐入、則此方様へ為手廻相伺候処、其御許様方思召之所被為在候ハヽ、伺之通取斗可申被仰付候付、此段及御相談候、御存寄も無御座候ハヽ、宜敷御伺被仰上候□可被仰下候、右之段御相談旁如斯御座候、以上
  七月晦日
 川通  三和六左衛門様  小寺 勘兵衛様         平塚  習
  鈴木弥一右衛門様        平塚武左衛門
  加藤養左衛門様 御用
右之手紙ニ堤方ト之掛合ノ御紙案文認、封ニ入遣候、文法之儀は左ニ記ス、尤村継御用状如斯ニ付、右之外ニ文法認有之川通御用留メ日記之取斗向記し有之事、

御手紙致拝見候、如仰秋冷之節御座候得共、各様弥御安全被成御勤、珍重奉存候、然は例年之通、大川通御取払場為見分改、出役之儀、別紙案文之通、笠松堤方へ相談申遣候哉、為御相談被仰越候御紙面之趣、御同意奉存候間、申上候処、何之思召も無御座候間、本紙御認御差出可被下候、右御報可得御意如斯御座候、以上
  七月晦日
 川通              三和六左衛門  平塚  習 様        小寺 勘兵衛  平塚武左衛門様        鈴木弥一右衛門 御用              加藤養左衛門
D   八月朔日
以村継致啓上候、然は大川通御取払場為見分改、例年之通廻村之儀、各様へ及御掛合、当月中致出役候様被申付候、右之段善之丞様へ三人中@以書中可被及御掛合候得共、御用留ニも可有御考候間、各様へハ従拙者共可及御掛合旨被申付候処、 御役所御差支も無御座候ハヽ、当月廿日比@御互ニ出役いたし度、御同様思召候ハヽ、御出役之御方々へ被仰達、来ル廿日迄ニ取払置候様、如例年先触御認、御調印被成候而御差越可被下候、当年番平塚習為見習平塚武左衛門同道致出役候間、名前御書載セ可被進候、印形相調差出可申候、尤不取払之村々も有之候ハヽ、其節於場所御相談之上、取斗可申候、右之趣各様へ自拙者共可及御掛合旨三人中被申付、如斯御座候、以上
                 加藤養左衛門   八月朔日          鈴木弥一右衛門                 平塚武左衛門                 平塚   習                 小寺 勘兵衛                 三和六左衛門
  棚橋 瀬十郎様  森川春右衛門様
追書 当年は夏廻りも延引相成居候得共、最早時節後レ相成候義ニ付、夏廻り之儀ハ流ニいたし度、秋相兼、当月中御互ニ出役方如何哉ニ奉存候、右等之儀も及御相談同様ニと三人中被申付候、宜被仰上候可被下候、且又時候御労勤奉専祈上候、以上

 「笠松堤方         多良  御役所           三和六左衛門   棚橋 瀬十郎様      平塚   習   森川春右衛門様      鈴木弥一右衛門  川通   御用                  」
「此壱封、川通御用之儀申遣候条、左之継立以無遅 滞早々可相届もの也、   八月朔日        多良                 奉行所 印                   上原村                   牧田村                   室原村                   綾野村                   西結村                    笠松迄                  右村々                   庄屋                   年寄                   百姓代 」
右之通八月朔日、上原村庄屋付九兵衛□へ為持替受取書付之印

一八月六日、加納領□□□下奈良両村願ニ付、下奈良村へ平塚習・鈴木弥一右衛門、堤方森川春右衛門・名和重之助出役之節、森川@平塚へ□旅宿ニおゐて御用談之節、此談中御掛合御座候大川通出役之儀、追而治定御答可申、暫御答延引相成候段、断有之候之事、

E    八月廿二日
一笠松堤方水野桂次郎@御用状、昨廿一日子ノ下刻小山牧村@相達ス、
以剪紙致啓上候、秋冷之節、各様弥御堅固被成御勤、珍重奉存候、然は先達而中御懸合有之候大川通御取払場御立会御見分之儀被仰越、右出役之儀、拙者へ被申付候ニ付、定例之通廻状弍通相認差進申候、尤取払日限之儀は来月十日迄ニ注進可申出旨、則日限書入調印いたし差進候間、別段御存寄無御座候ハヽ、御調印之上御差出被下、御改方出役之儀ハ村々注進之上、猶御掛合可得御意旨善之丞申聞、如斯御座候、以上
  八月廿一日           水野桂次郎
 平塚  習 様 平塚武左衛門様

F「              堤方                 水野 桂次郎     廻 状       高木大内蔵内  川通             平塚  習     御用          平塚武左衛門                  横曽根村始」

其村々、宝永年中川通水行障ニ相成、取払被仰付候場所、近年川通之規矩致忘却、都而取払方不行届、川方野方へ差木いたし、水行害ニ相成候村々も有之、精々申触候得共、不行届不埒之至ニ候、来月十日迄ニ取払、多良・笠松御役所江注進可申出候、追而廻村之節、去ル寛政二戌年・享和三亥年・天保十亥年相改候絵図面を以、巨細吟味いたし、不行届村々も有之候得は、場所附いたし為取払可申条、心得違無之、宝永年中取払場外ニ候共、当時水行害ニ相成候場所は、右日限迄ニ急度無相違取払置可申候、殊ニ近来引続候大水ニ而、年々堤切入候段、水行不宜故と相聞候間、前書相触候趣、定例之事と心得違無之、入念取払可申候、
一新規杭出猿尾其外模様替等、両御役所へ不請差図、心侭ニ取繕候分、若於有之ハ、是又日限通り取払イ可申、若等閑之向有之分ハ、見分之節、品ニ寄場所附為取払候間、兼而相心得置可被申候、此廻状村下ニ致印形、不限昼夜刻付を以順達、留り村ニおゐて我等共罷越候節可被相返候、以上
             高木大内蔵内 割  巳    同      平塚武左衛門 印     八月廿二日    同 平塚  習  印 印           堤方役      未ノ中刻出ス    水野 桂次郎 印
横曽根村 船付村 大野村 豊喰新田 塩喰村 大吉新田 根古地村 根古地新田 西海松村 柿内村 大牧村高柳新田 小坪新田 駒野村 羽根村 上野河戸村 山崎村 安江村 太田村 外新田 私領太田新田 御料太田新田 東平賀村 古舗村 東福永村 上之郷村 南之郷村 大鳥居村 今嶋村 下深谷部村 東汰上村 上之輪新田 福嶋村 茂左衛門新田草場支配人 与左衛門新田草場支配人 赤地新田 六百新田 長嶋新田源六山土取場惣代 福井新田  桑名 赤須賀新田 大貝須新田立田新田 福本新田  大平新田 一ノ新田 白鶏新田松高新田 真桃新田  服部新田 富栄新田 土吉新田常磐新田 寿永野新田 松吉新田 住吉新田 老松新田根蔭新田 井沢新田 長徳新田 横満蔵新田 源緑新田白鷺新田 松永新田 藤里新田 稲賀新田  上野新田大野新田 川先新田 豊崎新田 福崎新田 雁ヶ地脇附新田 白鷺脇附新田 田代新田 大新田  近江嶋新田雁ヶ地附新田 外平喜新田 加路戸新田 殿名村 姫御前新田 鎌ヶ地新田 葭ヶ浜新田 長地附新田 長地新田 豊松新田 福吉新田 都羅新田 大嶋村 十日外面村 西外面村 平方村  千倉村 下坂手村 上坂手村松之木村 新所村 西川村 小島村 押付村 篠橋新田中島中新田 五明村 小島新田 船頭平村 又右衛門新田  尾州福原新田 御料福原新田 松田村 下立田村油島新田 江内村  金廻村 万寿新田 七右衛門新田帆引新田 安田村 安田新田 宮地村 梶屋村 柳湊村西小嶋村 日下丸村 福岡村 脇野村 土倉村 今尾村
      庄屋   右村々年寄  中
      百姓代  上之郷村 桑名領惣代
          柚井村源蔵    □川村
       右同断         高座村
          上ノ輪新田     □□
            □五郎  南之郷村

右同文言ニ而左之通、壱通文言ハ前ニ記し有之通、
「              堤方改                 水野 桂次郎     廻 状       高木大内蔵内  川通             平塚  習     御用        同 平塚武左衛門                  福束村始 」

               高木大内蔵内                平塚武左衛門 印               同 割              平塚  習  印    巳          堤方役 印   八月廿二日      水野 桂次郎 印
         未ノ中刻出ス
福束村 川口村 島村 今福村 難波野村 牧村 直江村 大村 三本木村 万石村 波須村 佐渡村 下開発村 下開発新田 上開発村 上開発新田 津村 西結村北今ヶ淵村 大明神村 中須村 南波村 中村 南条村            UV大森村 森部村 下宿村 下宿村  西ノ橋村 西橋村墨俣村 祖父江村 下穂積村 上穂積村 前野村 別府村 只越村 生津村 河渡村 江崎村 下奈良村 次木村 高河原村 日置江村 御茶屋新田 西小熊村 東小熊村 天王森村 間嶋村 本郷村 平方村 堀津村 堀津枝郷須賀村 楡俣村 大薮村 勝村 東方村 野寺村大須村 幡長村 者結村 野市場村 松之木村 瀬古村小薮村 成戸村 今尾村 油島新田 金廻村  福江村古中嶋村 森下村 外浜村 長久保村 日原村 松山中島村 長瀬村 駒ヶ江村 大和田村 秋江村 木曽川附成戸村 同川附小薮村 前野村 八神村 城屋敷村 石田村 中野村 加賀野井村 駒塚村 三ツ柳村 新井村起村之内加納新田 坂丸村 大浦村 光法寺村 森新田南及村 北及村 三ツ屋村 長池村 藤掛村  田代村徳田新田 笠松村
           右村々  庄屋                年寄 中
                百姓代
右之通、御用状并廻状弍通共、此方様へ入御覧、為手廻御用状返報下タ共入御覧、伺済之上、御両所様江順達いたし、川通役へ添手紙を以御用状廻状到来、則此方様御覧済、御順達申候間、宜被仰上可被下候段、且廻状ハ例之通文格例之通ニ付、不相廻、為手廻返報下タ相廻し候事、
一右之通、 御三所様御覧済廻状并笠松江之返報等取調候て今廿二日未ノ中刻出ス、
一水野江之返報、左之通、
御剪紙致拝見候、如仰秋冷之節、弥御堅固被成御勤、珍重奉存候、然は先達之中、棚橋瀬十郎殿・森川春右衛門殿及御掛合候大川通御取払場所立会見分之儀、得御意候処、右御出役貴様江被仰付候ニ付、定例之通廻状弍通御認メ、尤取払日限之儀は来月十日迄注進可申旨、則日限御書入御調印之上、差越被下候間、存寄も無之候ハヽ、調印之上、日附書入差出可申、且改方出役之儀ハ、村々注進済之上、猶御掛合可被下旨、御紙面之趣承知いたし、差支も無御座候間、則日附書入、今廿二日差出申候、右之段宜及御報之旨三人中被申付、如斯御座候、以上
  八月廿二日         平塚武左衛門                平塚  習 
 水野桂次郎様

G
猶以御出役御苦労奉存候、御存之通不束ものニ候間、宜被仰合被下候様奉願候、以上
右返報村継
小山瀬村 沢田村 島田村 福束村 大薮村 江吉良村笠松迄              右村々 庄屋                     年寄                     百姓代
一廻状惣封上書、左之通、
「           多良               御役所            笠松  川通            水野桂次郎   御用書付         平塚 習                平塚武左衛門                   福束村へ」
  「此壱封川通御用之儀申遣候条、左之継を以   無遅滞順達可相届候、以上             奉 行 所 印                 小山瀬村    巳八月廿二日       沢田村        未ノ中刻出ス   嶋田村                右村々                  庄屋                  年寄                  百姓代」「           多良               御役所            笠松  川通            水野桂次郎   御用書付         平塚 習                平塚武左衛門                  横曽根村へ」
  「横曽根村江之壱封、早々相達シ可申候、以   上             多良   割           奉行所 印     巳八月廿二日      福束村   印    未ノ申刻出ス    庄屋                  年寄                  百姓代」右之通、夫々取調之上、今廿二日未ノ中刻小山瀬村御料庄屋代鶴ヵ右衛門方へ□□為持遣、請取書取之置、

H    九月十八日
一笠松堤方右田安五郎@之御用状村継、今夜四ツ半時、沢田村@相達候、左之通、
以切紙致啓上候、然は先達而中水野桂次郎出役之積ニ付、同人より御懸合およひ置候処、国役普請仕立出役罷在候間、拙者大川通御取払場見分出役いたし候ニ付、来ル晦日舩付村江向罷越候様いたし度、尤先触之義は彼地ニおゐて御相談取斗可申候、右日限御差支も無御座候ハヽ、別段不及御掛合候間、同村江御出張被成候、右御相談旁可得御意旨、善之丞申聞如此御座候、已上
   九月十八日          右田安五郎
  平塚  習 様  平塚武左衛門様猶々水野桂次郎江御内書着、仰越之趣承知いたし候、晦日ニ而ハ御差支御座候ハヽ、被仰越候様奉存候、余は拝T顔之節□□□已上
右之通申来候ニ付、翌十九日朝出勤之上、 殿様へ及申上候処、晦日御出役可致段被 仰付候付、御両所様江も川通役へ為□書状差遣し、差支無之候間、晦日@出役候様被仰付候旨申遣シ置候事、
I   九月廿日
御切紙致拝見候、然は先達而中水野桂次郎殿御出役之御積ニ付、御掛合御座候処、国役御普請仕立御出役被成候ニ付、貴様大川通御取払場御見分御出役候間、来ル晦日舩付村へ向御出張、尤先触之儀は彼地ニおゐて御相談可申旨、右日限御差支も無御座候ハヽ、別段不被及御掛合候間、同村へ向出張可致、御相談旁被仰越候趣承知いたし、三人中江申聞候処、差支無御座、晦日@出役可致旨被申付候、右御報宜得御意候間、三人中被申付候如斯御座候、以上
   九月廿日           平塚武左衛門                  平塚  習
  右田安五郎様
猶々御端書之趣承知いたし候、差支無御座候間、晦日@出張可被成候、何分宜被仰合可被下候様奉願候、余は近日御拝顔之上、万々可申上候、早々以上
右御用状封之上、左之通り、

「 笠松           多良奉行所  堤方御役所          平塚  習   右田安五郎様        平塚武左衛門  川通   御用                 」

  「  此壱封、川通御用之儀申遣候条、村々     継を以、無遅滞早々可相届もの也、   割          多良      巳九月廿日     奉行所印   印             小山瀬村                 牧田村                 室原村                 綾野村                 西結村                 笠松 迄                右村々                  役人」
                       
右之通、小山瀬村御料庄屋方へ為持遣ス□□□受取書取之置く、

J     九月廿七日
一右田安五郎@之御用状、小山瀬村@相達ス、左之通、
以切紙致啓上候、然は大川通御取払場之内、伊尾川通与左衛門・茂左衛門両新田請印之儀、先年は長嶋領@も請印いたし候旨ニ而、右領分惣代申出候ニ付、右請方帳御取調被置、来ル晦日御出張之節、御持参御座候様いたし度奉存候、右之段可得御意如是御座候、以上
  九月廿六日          右田安五郎
 平塚  習 様 平塚武左衛門様
右之通り申来候ニ付、左之通返報、明廿八日油嶋自普請所請印之儀ニ付、掛り戸沢助太夫・中島鍵次郎へ御用意、村継鵜多須手附@申来候、今尾鉄炮打場一件ニ付、棚橋瀬十郎・森川春右衛門へ之御用状差出候ニ付、一緒ニ明廿八日出候事、

K     九月廿八日
御切紙致拝見候、然は大川通御取払場之内、伊尾川通与左衛門・茂左衛門両新田請印之儀、先年ハ長嶋領@も請印いたし候旨ニ而、右領分惣代申出候ニ付、右請印帳取調置、来る晦日御出張之節、持参いたし候様被仰越候趣致承知候、右御報可得御意如斯御座候、以上
   九月廿八日          平塚武左衛門                  平塚  習 
  右田安五郎様
猶々本文之趣取調ハいたし見可申候得共、年久鋪中緩いたし居候様ニも奉存候間、早速調付かね可申哉とも奉存候、此段は兼而御□置可被下候様奉願候、已上

L  九月廿九日
一明晦日出役ニ付、先触左之通出ス、
   覚
一人足八人
   内 駕籠弍挺  五人     雨掛弍荷  弍人     合羽籠壱荷 壱人
右は大川通宝永年中御取払場所為見分、我等共義明晦日朝六ツ半時多良出立、舩付村泊之積罷越候間、書面之人足無遅滞継立可被申候、休泊村上ニ記し遣候条、上下六人之支度、所有合之野菜一汁壱菜ニ而取賄、用意置可被申候、其外酒肴は勿論、馳走ヶ間敷儀、堅有之間敷候、此先触早々順達、於泊り村着之節可被相返候、以上
  巳九月廿九日        平塚武左衛門 印                平塚  習  印                   小山瀬村    和田郷へ人足差出置可被申候、 牧田村
                休  嶋田村               泊り  舩付村                  右村々                    庄屋中
右之通先触、小山瀬村庄屋方へ為村遣、受取書取之置候事、

M
一御両所様江晦日@出役仕候段御届、御暇乞旁御玄関迄罷出候而申上置仕候事、
                  平塚  習                  平塚武左衛門
             西御取次                  栗田 □□□
             北取次                  加藤養左衛門
一殿様御前ニおゐて御暇乞申上候事、
一御両所様川通役@御出役中、雑用金例之通被差越候事、
一御雑用金、御勝手方@受取候事、

N   九月晦日
一舩付村江罷越、同村ニ而右田安五郎面会相談済之上ニ而、明朔日舩付村出立、川通取払方見分改として村々廻村ニ付、出役方并休泊等之日割書付、先触弍通差出ス、右文言は大川通見廻御用中日記之内、九月晦日之処ニ記し有之、爰ニ略ス、

O   十月三日
一今三日御茶屋新田止宿之積、先触出置候得共、見分出来かね候ニ付、休泊入、左候間追触出ス、尤西結輪@、
今三日御茶屋新田止宿之旨先触差出置候処、右村迄廻村出来不申、河渡村止宿之積ニ付、旅宿弍軒用意可有之由、其余先触通可被相心得候事、
 巳十月三日       高木大内蔵内               平塚武左衛門 印             同               平塚  習  印             堤方役               右田 安五郎 印                   河渡村                    役人中
追而御茶屋新田江は我等共@申遣置候故、可被得其意候、以上

P「            堤方役  追触           右田安五郎 川通          高木大内蔵内   御用          平塚  習             同 平塚武左衛門                  河渡村」                        
今夕御茶屋新田止宿之旨、先触差出置候処、今三日河渡村止宿ニ付、得其意可被申候、尤河渡村江は別段申遣候ニ付、可被得其意候、此留触我等共着之上、可被相返候、以上
  巳十月三日      高木大内蔵内                平塚武左衛門 印             同  平塚  習  印             堤方役                右田 安五郎 印                  御茶屋新田
                    庄屋                    年寄 中
                    百姓代

Q上包紙別同断
    覚一人足 拾弍人  内  一駕籠人足  八人   雨懸三荷  三人   合羽籠一荷 壱人
右は大川通取払場見分御用ニ付、今三日昼後上開発新田出立、河渡村江罷越候間、書面之人足無遅滞継立可有候、以上
  巳十月三日      高木大内蔵内                平塚武左衛門 印             同  平塚  習  印             堤方                右田 安五郎 印                  美江寺村                    役人中

R 「           堤方役                右田 安五郎   先触        高木大内蔵内  川通            平塚  習   御用        同  平塚武左衛門                  美江寺村」

一十月六日出役先東小熊村昼休之節、間嶋村@東側小薮村迄、西側楡俣村@成戸村迄、追触差出候事、左之通、
其村々廻村之儀、先触通相越候儀出来不申候ニ付、追触差出罷越候故、得其意可被申、此留触村名相認、刻付順達可有之候、以上
 巳十月六日      高木大内蔵内   巳ノ中刻出ス      平塚武左衛門 印            同  平塚  習  印            堤方役               右田 安五郎 印            長良川西側                楡俣村始                成戸村迄              右村々                 庄屋                 年寄 中                 百姓代
一右文言ニ而一通
             長良川東側                  間嶋村始                  小薮村迄               右村々                  庄屋                  年寄 中                  百姓代

城30−5−1           
〔表紙〕
 「伊尾川通之内字鯰河原と唱候今尾・土倉両村地  先附砂場所ニ而鉄炮留場取建一件書類」

一巳十月廿二日習・武左衛門大川通見分済、為御用談笠松御役所江罷出候所、棚橋瀬十郎・森川春右衛門及面会候処、森川@申聞候は、先達而御掛合御座候今尾鉄炮打場一件之儀、善之丞江も鵜多須@掛合有之候、右鉄炮之儀は容易不成義ニ付、善之丞@鵜多須表へ掛合いたし居候、右返報有之次第、先達而御掛合之御答御掛合振等、可得御意心得ニ御座候、右善之丞@掛合置候趣意は、別紙書抜可差上旨被申聞候付、何分宜奉頼候旨相答置候事、

御剪紙致拝見候、冷気之砌弥御堅固被成御勤、珍重奉存候、然は伊尾川通之内、字鯰河原と唱候今尾・土倉両村地先附洲之場所におゐて、竹腰兵部少輔殿在所今尾詰御家来、四月朔日@七月晦日迄之内、夏中玉目百目迄之鉄炮目当三四町迄之稽古為致度、前後締筋之儀は厳重ニ為取斗候故、川通舩等有之節ハ為差扣候様可被成旨、御用人@御達有之由、就夫右場所御領之村々御吟味有之候処、差障相見へ不申候得共、川向西堤之儀は支配所高柳村地内ニ候間、殊ニ美濃地川々水行へ付而ハ、当陣屋・多良両支配ニ付、旁被及御打合候間、差障之節ハ無之哉、吟味之趣可被遂旨、依之御別紙絵図面壱枚被遣致落手、御紙面之趣致承知候、然ル処御府内鉄炮之儀、并御用場新規取建之儀ニ付而ハ、追々御触之趣も有之、其上右場所之儀は水行取払ニも有之候処、右稽古中ハ小屋場御取建等も可有之哉、左候得は出水先取払場之廉ニも差響キ可申哉、尤御取〆リハ有之候趣ニハ候得共、川通之儀殊ニ新規之義ニ付、多良へ申合、伺之上ならてハ難及御報候間、左様御承知可被下候、右ニ付、其御方ニてハ御手限之儀ニ候哉、其御筋へ御届等ニ而も御差出之儀ニ候哉、又ハ類例等も有之哉、承知いたし度御報旁得御意候間、右否被仰越候様致度、如此御座候、以上
   九月廿六日          箕内善之丞
  吉田助次郎殿
猶々御別紙絵図面ハ、御報之砌返送可致旨致承知、追て返送可致候、且又多良表へも御考へ之趣被及御掛合候由致承知候、以上

  弘化三年午四月廿八日
一去巳九月廿六日、鵜多須@申越有之候伊尾川通之内、字鯰河原と唱候今尾・土倉両村地先之砂附場所ニ而、竹腰殿在所今尾詰御家来、夏中鉄炮稽古之儀ニ付、掛合有之候処、去巳十月廿二日大川通見廻御用済、笠松御陣屋ニ習・武左衛門罷出候処、森川春左衛門@先達而御掛合御座候今尾鉄炮打場一件、善之丞江も鵜多須@掛合有之候、然ル処鉄炮之義ハ容易不成義ニ付、則善之丞@鵜多須ヘ掛合およひ置申候、□□致次第ニ寄、先達而之御掛合御答可得御意候、尤善之丞@鵜多須江掛合振等入念書抜、可入御覧と申聞候付、右書抜被相添候事、右ニ付宜御頼申候旨申答置候処、左之通鵜多須@申来ル

以剪紙致啓上候暖和之砌、弥御堅固被成御勤、珍重奉存候、然は伊尾川通之内、字鯰河原と相唱候今尾・土倉両村地内砂附之場所ニおゐて、竹腰兵部少輔在所今尾詰御家来ニ、四月朔日@七月晦日迄之内、玉目百目迄之鉄炮目当三四町迄之稽古之儀、差障之筋無之哉御吟味之趣御申越之様致度旨去巳九月委曲相達置候処、今以御申越品も無之候間、何卒急ニ御報御申越候様いたし度、再可得御意旨吉田助次郎申聞如斯御座候、以上
   四月廿三日           川嶋又三郎
                  野間重右衛門
 三和六左衛門様
 加藤加藤太様
 平塚  習様

右御事、森・西垣@市ノ瀬村@相達候趣ニ而順達、御三所様申上済之上、笠松江向合申遣候事、左之通

   五月二日
以剪紙致啓上候、然は昨年九月中及御相談候伊尾川通之内、字鯰河原と相唱候今尾・土倉両村附洲之場所ニおゐて、竹腰兵部少輔殿在所今尾詰家来、四月朔日@七月晦日迄之内、玉目百目迄之鉄砲目当三四町迄之稽古之儀、差障之儀無之哉、吟味之趣及答候様、去九月鵜多須@掛合有之、其節及御相談候処、右は不容易義ニ付、両御役所@伺之上ならてハ難及御報旨、 善之丞様@吉田助次郎江御掛合之趣承知いたし居候処、右場所之儀、今以返報不申遣候ニ付、急々返答申越候様、此頃申参候間、尚又御相談之上、御同様取斗候様三人中御申出し候間、此段宜被仰上□、御報ニ被仰下候様いたし度、右御相談旁得御意、如斯御座候、
     五月二日
              加藤養左衛門
              鈴木弥一右衛門
              平塚武左衛門
              平塚   習
              小寺 勘兵衛
              三和六左衛門
  棚橋 瀬十郎様
  森川条T右衛門様

猶以本文御用場新規取建之儀ニ候而ハ、追々御触之趣も有之、且又川通取払場ニ夏中小屋等拵候而ハ、出水之節差支、若一格別差支ニ不相成候共、新規小屋取建候儀、川通一躰の規矩ニ相掛り候間、不相成処被存候、堤内之義ハ別格、堤外之儀ハ差留候方可為被致候、乍然差留候ニ付而ハ、 善之丞様三人中御連名御伺被差出、御下知済之上差申遣候ニ付、可然奉存候、乍併再問合申参候由、此節伺中之儀、追而及御答候旨申遣候而ハ如何可有御座候哉、御内考之上、御伺被下思召、旁無御腹蔵可被仰下候、且又御考之上、御伺書御出来被下度奉願候、右等之趣各様迄御相談、得御意候様被申付候、以上
右之通村継を以否差出ス、上原・牧田・室原・綾野・西結・笠松之継立遣候事、

   五月八日
一笠松@之返報沢田村@相達ス、
御剪紙致拝見候、然は昨年九月中及御相談候伊尾川通之内、字鯰河原と唱候今尾・土倉両村附洲之場所ニおゐて、竹腰兵部少輔殿在所詰御家来ニ、四月朔日@七月晦日迄之内、玉目百目迄鉄砲目当三四町迄之稽古為致、差障之義無之哉、吟味之趣及答候様、去九月中鵜多須@掛合有之ニ付、委細御紙面之趣承知いたし候、右は其節も得御意置候通、御府内鉄砲之儀、并御用場新規取建之儀候而ハ、追々御触之趣も有之、其上右場所之儀は水行取払場所ニも有之候故、右稽古中ハ小屋場取建等も可有之哉、左候得ハ出水先取払場之廉ニも差響可申哉、尤取締ハ有之趣ニ候得共、川通之儀、殊ニ新規之儀ニ付、旁御地へ御相談窺之上ならてハ難及御報、且又其手限之儀ニ候哉、其筋之届等ニ而も有之哉、御承知いたし度候間、否申越候様、善之丞@吉田助次郎へ返書旁申遣し置候処、同人方@今以何等之返答も不申越、右之否一向難相分儀と奉存候、右之次第ニ付、同人方@否不被成内は、何れ御挨拶およひ兼候間、此段御承知可被下候、右之段御報旁可得御意候間、善之丞申聞如斯御座候、
   五月八日           森川条右衛門
                  棚橋 瀬十郎
  三和六左衛門様
  小寺 勘兵衛様
  平塚   習様
  平塚武左衛門様
  鈴木弥一右衛門様
  加藤養左衛門様

猶々御端書之趣承知いたし候処、本文申渡候次第も有之ニ付、是又何共御挨拶およひ兼候間□□□、
右之通返報到来ニ付、鵜多須江之返報遣ス、

   五月十一日
御剪紙致拝見候、薄暑之節弥御堅固被成御勤、珎重奉存候、然は伊尾川通之内、字鯰河原と相唱候今尾・土倉両村地先附洲之場所ニおゐて、竹腰兵部少輔殿在所今尾詰家来ニ、四月朔日@七月晦日迄之内、玉目百目迄之鉄砲目当三四町迄之稽古為致度、前後取締筋之儀は厳重ニ為取斗、右川通船等有之節は為差扣候様可被成旨、御用人@御達有之由、就夫右場所御領分村々御吟味有之候処、差障筋相見へ不申候得共、美濃地川々水行ニ付而は当方・笠松両支配ニ付、旁被及御打合候間、差障筋ハ無之哉、吟味之趣可及御答旨、去巳年九月御申越之処、今以御答不申候付、急々御報申進様被成度、御紙面之趣致承知候、右場所之儀は水行取払場ニも有之候処、稽古中は小屋等も取建可有之、左候得は出水先取払場之廉ニも相響可申、尤御府内鉄砲之儀并御用場新規取建之儀ニ付而は、追々御触等も有之候義、且川通之儀殊ニ新規之儀ニ付、笠松申合伺之上ならでハ難及御答義ニ付、前文之趣笠松へ申談候処、昨年笠松江も同様御懸合御座候儀ニ付、吉田助次郎殿江笠松御郡代@前書之趣御掛合有之候得共、今以右御返答無之由、付而は川通り之儀は当方・笠松同支配之儀ニ有之候間、御報無之内は難取斗候間、左様御承知、此段吉田助次郎殿江宜御申達可被下候、右御報旁得御意度如斯御座候、以上
  五月十一日          加藤養左衛門
                  鈴木弥一左衛門
                  平塚武左衛門
                  平塚   習
                  小寺 勘兵衛
                  三和六左衛門
  野間重右衛門様
  川島 又三郎様

猶々去九月御差越候絵図面は、御報之砌返進可致旨、兼而被仰越致承知候、追而返進可致候、以上

城37−2−5           
   乍恐以書付奉願上候
当二月御訴訟奉申上置候、伊尾川通水開場大垣御預所当国安八郡中須村 尾州御領同郡中村・牧村・中村出郷新規堤并土手差障之儀御慈悲ヲ以場所 御見分之上追々御糺被成下置難有奉存候、然ル処一応内熟取A御請申上候様段々 御理解御座候得共不容易場所之儀ニ付障り村々一同人気相立居内熟等ニ而勘弁筋は難相成候間達而御断奉申上候得共数度之 御理解難黙止候ニ付、兼而勘弁筋は聊も無御座旨申上、無拠一応御請奉申上、則夫々取A人被 仰付、当節右取A申ニ御座候処、今般河之場所見渡候得は、牧村土手数ケ所取繕御座候、論中ニ右躰取斗いたし候は、難得其意奉存候、既ニ 御役所@被為 仰付候内熟之儀迄も、容易ニ御請放不仕程、一同差はまり罷在候処、尚又論中ニ取繕候は内熟等ニ而手延相成候内、先方村々ニは深キ手段も有之様、障り村々一同申立、弥以人気相治不申候、此段乍恐 御賢察被成下置、内熟之儀 御赦免被成下置、 御慈悲之 御裁許奉願上候、以上
          戸田采女正領分
             安八郡
            濃州不破郡之内
             多芸郡
             大野郡
   文政十丁亥年十一月  八拾九ケ村惣代
               東前村名主 平郎九印
              右同断  T               福田新田名主 番之允印
              右同断
               藤江村名主 半之丞印
              右同断
               上開新田名主 又 市印
              右同断
               釜笛村名主 儀 助印
              右同断
               外渕村名主 七郎平印
              右同断
               宮村名主 市左衛門印
  多良
    御役所

城37−2−6           
   乍恐以書付奉願上候
当二月御訴訟奉申上置候伊尾川通水開場大垣御預所、当国安八郡中須村、 尾州御領同郡中村・牧村・中村出郷、新規堤并土手差障之儀、御慈悲ヲ以場所 御見分之上、追々御糺被成下置、難有奉存候、然ル処一応内熟取A御請申上候様、段々 御理解御座候得共、願面ニも委細奉申上、尚又 御見分も被成下置候通之場所故、障り村々一同人気相立居、迚も内熟等ニ而勘弁筋は難相成候間、無詮儀と奉存、達而御断奉申上候得共、数度之御理解難黙止候ニ付、兼而勘弁筋は聊も無御座旨申上、無拠一応御請奉申上、則大垣御預所ニ而大薮村勘四郎、 尾州御領ニ而神戸村半左衛門、大垣領ニ而石神村利左衛門、右三人江内済被 仰付、当節右取A中ニ御座候処、今般内々場所見渡候得は、牧村土手数ケ所取繕御座候、論中ニ右躰取計被致候ハ難得其意奉存候、既ニ 御役所@被為 仰付候内熟之儀とも、容易ニ御請敢不仕程、一同差はまり罷在候処、尚又論中手指T等も有之上は、先方村々ニは深キ手段も有之様申立、弥以障り村々一同人気相治不申候間、乍恐此段 御賢察被成下置、内熟等之儀は何れニも 御赦免被成下置、早々 御慈悲之御裁許奉願上候、以上、
          戸田采女正領分
            濃州安八郡
             不破郡
             多芸郡
             大野郡之内
   天保十丁亥年十月   八拾九ケ村惣代
               東前村名主 平郎九印
              右同断  T               福田新田名主 番之允印
              右同断
               藤江村名主 半之丞印
              右同断
               上開新田名主 又 市印
              右同断
               釜笛村名主  儀 助印
              右同断
               外渕村名主 七郎平印
              右同断
               宮村名主 市左衛門印
 多良
   御役所

城37−2−7           
  乍恐以書付奉願上候
伊尾川通 尾州御領当国安八郡中村外方葭野ニ、新規囲廻シ堤築掛候段承之、出水開差障ニ付取払呉候様、右村庄屋三左衛門江引合仕候処、彼是申立取払不申候、右引合ニ参候節見請候処、 同御領同郡牧村外畑ニ、新規水除土手所々ニ出来有之、并大垣 御預所同郡中須村 尾州御領同郡中村出郷、右は川並村方ニ而、中須村家居水請御堤而巳は御普請場所ニ御座候、其余障り場所、追々増長致シ居候ニ付、障り村之内、平村之儀は最寄村方ニ御座候故、右様水行差障りニ相成候、新規之儀ヲ不差障、其侭差置候は如何之心得ニ候哉之段、平村名主六大夫江障り村々@及察度候処、当村之儀、近年役所相替り村方混雑仕、同人儀も新役故無何心差障り等閑ニ相成候、此上は当村@夫々江取払候様引合可致旨申之、牧村庄屋太右衛門江及引合候処、当村水除土手障りニ候ハヽ、中須村・中村出郷之儀は近年水除致増長、牧村之水除土手@余程高ク、当村迚も迷惑筋夫ニは差障り無之、当村斗り差障候而も敢不取払趣被申候ニ付、中須村・中村出郷江及引合候儀は勿論ニ候間、外村江不拘取払之有無承度旨懸合仕候得共、彼是申立取払呉不申、并中村出郷庄屋源吾江も及引合候処、当村水除之儀は川岸ニ無御座、牧村水除之儀は川岸ニ有之処、取払ニ不相成候ニ、当村之水除は敢取払不申抔と彼是譲合、中須村之儀も品々申立取払不申候旨、平村@障り村々江申聞候、右障り場所は伊尾川通水開第一之場所ニ御座候、且伊尾川之儀は、急水出盛り不移時刻、就中諸川之落合ニ而、一旦ニ水相嵩候儀絶言語御堤難持堪、然ル処右場所江水相開、長良川江押通シ、漸御堤持堪候儀ニ御座候、然ルニ水除并囲廻シ堤出来候而は、前件奉申上候通一旦ニ水相嵩、迚も御堤難持堪、若切入候得は三万余石之立毛損亡は勿論、数多之村々江入水仕、必至難渋眼前之儀と、障り村々一同人気不相治迷惑仕候、依之何卒右之段被為 聞召、分厚 御慈悲之 御仁恵を以乍恐 御見分之上、中須村・中村出郷之儀は元形ニ取直候様、牧村・中村新規之儀は不残取払候様被為 仰付被下置度、別紙絵図面相添、乍恐此段奉願上候、以上、
           戸田采女正領分
             濃州安八郡
  文政十丁亥年二月   不破郡
             多芸郡
             大野郡之内
              八拾九ケ村惣代
               東前村名主 平郎九印
              右同断  T
               福田新田名主 番之允印
              右同断
               藤江村名主 半之丞印
              右同断
               上開新田名主 又 市印
              右同断
               釜笛村名主  儀 助印
              右同断
               外渕村名主 七郎平印
              右同断
               宮村名主 市左衛門印
  多良
    御役所

城37−2−8           
(端書)
「伊東幾右衛門様       近藤庵之助
               石川孫太夫
 山田可成様         大沢治兵衛」
以剪紙致啓上候、向寒之砌、各様弥御堅固被成御勤、珎重奉存候、然は追々及御懸合候伊尾川通水開場之内、当方御預所安八郡中須村并尾州御領同郡中村・牧村・中村出郷之内、堤土手等新規ニ築立候分之儀ニ付、当領分障り八十九ケ村惣代之者共、其 御役所江為致出願置候之処、右一件ニ付当国今般致出訴度申出候、依之為惣代藤江村名主半之丞・福田新田名主番T之允差出申候間、御繁用可有御座候得共、様子御聞、宜御取扱被下候様致度、右為可得御意如是御座候、以上、

   十一月廿日           大沢治兵衛
                   酒井小源太
                   石川孫大夫
                   藤江彦之丞
                   近藤庵之助

  伊東幾右衛門様
  三和六左衛門様
  加藤加藤太様
  山田可成様

尚以本文願之儀は、先達而得御意置候処、於笠松ニ御不審之儀も有之、願面ニも少々相改候儀も有之ニ付、猶又改而差出申候、此段御承知可被下候、以上、

城37−2−9           
(包紙)
「多良御役所         笠松堤方御役所
  伊東幾右衛門様         森川条左衛門
  三和六左衛門様
  加藤加藤太様          名和茂利右衛門
  山田可成様
 □用                     」

村継之御剪紙致拝見候、如仰寒冷之節、各様弥御堅固被成御勤、珎重奉存候、然は大垣領安八郡外三郡之内@伊尾川通水開場差障出入一件、御互ニ当春中見分之上、内整申渡A人掛ヲ置候処江、当月廿二日又候大垣領惣代共添翰を以罷出取A中之処、今般牧村土手数ケ所取繕有之候由を申立、願書差出候、尤当役所江も同様願出之趣御承知ニ付、留取計可申哉、御同様被成度、為御相談委細被仰越候、御紙面之趣致承知候、則当役所江も同様願出候処、添翰文段と願書振れ、旁以付合不致候ニ付、願之趣意得と相分り候様願書取調、可差出旨申渡シ下遣置候間、猶差出候上、一応相糺及御掛合、御相談之上取計候様可致候間、左様御承知可相成候、右御報為可得御意如斯御座候、以上

   十一月二日          名和茂利右衛門
                  森川条左衛門

  伊東幾右衛門様
  三和六左衛門様
  加藤 加藤太様
  山田  可成様

尚々御端書之趣致承知、被入御念候儀ニ奉存候、以上

城37−2−10           
〔包紙略〕
以剪紙致啓上候、春寒之砌、各様弥御堅固被成御勤、珎重奉存候、然者尾州御領分安八郡中村之儀、新規懸廻堤取懸り、并同御領分牧村之儀、伊尾川通ニ新規水除土手、追々取立候ニ付、当方御預所西結村、外弐ケ村及難渋候之間、取払之儀及懸合候得共行届不申、 其御役所江出願致度旨申出候ニ付、惣代西結村民之丞差出候間、願之趣御聞糺、宜御取斗御座候様致度奉存候、右為可得御意如此御座候、已上、
   三月四日           桑山伝左衛門
                  小林平次左衛門
                  戸田吉右衛門

  伊藤幾右衛門様
  三和四郎大夫様
  加藤 加藤太様
  杉村  孫蔵様

城37−2−11        
御剪紙致拝見候、如仰春寒之砌、各様弥御堅固被成御勤、珎重奉存候、然は尾州領安八郡中村之儀、新規懸廻し堤取懸り、并同領牧村之儀、伊尾川通りニ新規水除土手、追々取立候ニ付、其御預所西結村外弐ケ村及難渋候ニ付、取払之儀被及掛合候処不行届候ニ付、此役所江致出願候ニ付、宜取斗候様御紙面之趣致承知、則一通り承り及挨拶帰村申付候、追而修理・玄蕃・内膳可申聞候、右為御報得御意度如斯御座候、以上、
   三月五日             此方四人

  戸田吉右衛門様
  小林平次左衛門様
  桑山伝左衛門様

城37−2−12           
〔包紙略〕
御剪紙致拝見候、如仰薄暑之砌、各様弥御堅固被成御勤、珎重奉存候、然は伊尾川通水開場水除出入一件、再応熟談申渡方之義、兼而御掛合之通、大垣御預所并本領村々惣代之もの江被仰渡御申渡被下、御請申上候旨申之ニ付、御料大薮村庄屋勘四郎、尾州領神戸村庄屋半左衛門、大垣領名神村庄屋利左衛門取扱、此節双方内熟掛合中之旨被仰下致承知、御世話共奉存候、右御報可得御意如斯御座候、以上、
   五月十四日             加藤
                     伊東

  森川
  名和

城37−2−13           
以剪紙致啓上候、薄暑之砌、各様弥御堅固被成御勤、珎重奉存候、然は伊尾川通水開場水除出入一件、再応熟談申渡方之儀、油島新田地先自普請所見分之節、茂利右衛門@及御談判候始末、 御三所様江被仰上候之処、御同様被思召候旨被仰越、承知仕、則御紙面之趣を以大垣御領所并領分村々惣代之もの江申渡候処、御請申上候旨申之ニ付、御料大薮村庄屋勘四郎、尾州領神戸村庄屋半左衛門、大垣領石神村庄屋利左衛門取扱、此節双方内熟掛合中ニ御座候、此段御報旁可得御意如斯御座候、以上
   五月十一日          名和茂利右衛門
                  森川隆左衛門
  伊東幾右衛門様
  加藤加藤太様

城37−2−14           
村継之御剪紙致拝見候、各様弥御堅固被成御勤、珎重奉存候、然は大垣領安八郡外三郡之内、伊尾川通大垣御預所中須村、尾州領安八郡中村・同郡中村出郷、新規之普請いたし候由ニ而、添簡を以其 御役所江出願いたし候ニ付、当方役所江も同様願出候旨申立候間、御同様御取斗被成度、勘考之上否御報可申進旨為御相談、委細被仰越候、御紙面之趣致承知候、当方役所江御同様出願いたし、右は御立会場之儀ニ付、いつれ場所見分御相談之上取斗候様可致と奉存候、尤旅宿村取極、且出立日限等治定之上可存御掛合、右御報得御意度如斯御座候、以上
   二月廿七日          棚橋 瀬十郎
                  水野郡右衛門
  伊藤義左衛門様
  三和六左衛門様
  加藤 加藤太様
  杉村  孫蔵様
追而御端書之趣致承知候、当方懸り森川条左衛門・名和茂利右衛門御座候、追々両人@及御掛合、左様御承知可被下候、加藤太殿@郡右衛門・三郎右衛門江之御細書落手候、尤御届書之義は先月上旬差立候、いつれ近内、帳面取調之上及御掛合候間、今便別段御報不及候間、左様御承知可被下候、以上

城37−2−16           
〔包紙略〕
以剪紙致啓上候、春暖之砌御座候処、各様弥御堅固被成御勤、珎重奉存候、然は伊尾川通水開場之内、尾州御領当国安八郡中村外方葭野ニ新規囲廻シ堤築掛、并其外ニも新規水除土手等所々出来有之ニ付、当領分障り村々@其 御役所江致出願度旨申出候付、為惣代宮村名主市左衛門、上開新田名主又市、釜笛村名主儀助差出申候間、御繁用可有御座候得共、様子御聞、宜御取扱被下候様致度、右為可得御意如是御座候、以上

   二月廿二日           大沢治兵衛
                   酒井小源太
                   石川孫太夫
                   藤江彦之丞
                   近藤庵之助
  伊東幾右衛門様
  三和六左衛門様
  加藤 加藤太様
  杉村  孫蔵様

城37−2−17           
御剪紙致拝見候、如仰春暖之砌御座候得UV処、弥御堅固被成御勤、珎重奉存候、然は伊尾川通り水開場之内、尾州領当国安八郡中村外方葭野ニ新規囲廻シ堤築掛り、并其外ニも新規水除土手等所々出来有之ニ付、其領分障村々@当役所様江出願致度旨ニ付、為惣代宮村名主市左衛門、上開新田名主又市、釜笛村名主儀助御差出、則呼出シ一通り承之及挨拶、帰村申付候、追而修理・玄蕃・内膳江可申聞候、右御報可得御意候、如斯御座候、以上
  二月廿三日
                  杉村  孫蔵
                  加藤 加藤太
                  三和六左衛門
                  伊東幾右衛門
  近藤庵之助様
  藤江彦之丞様
  石川孫太夫様
  酒井小源太様
  大沢治兵衛様

城37−2−19・20           
〔包紙〕
 川通
  山田可成様           伊東幾右衛門
   御用答            三和六左衛門

御手紙致拝見候、如仰寒冷之節御座候得共、弥御安全被成御勤、珎重奉存候、然は牧村江出郷之義加藤@申参、伊東病気旁貴殿様江御出張之義御談申上、則御出張御苦労奉存候、右ニ付御丁寧御紙面之趣致承知候、差当り申上候義も無御座候、何分宜奉願上候、杉村之義も御取上候、猶又申上候様可致候、御送用金壱分、今日加藤氏江御廻候之間、左様御承知可被下候、右御報旁如此御座候、以上
  十月十四日
尚々昨十日伊東・加藤出張之節之絵図書物相廻し申候様加藤@今日申参り、取調絵図壱枚、当五日伊東罷出候節写取置候、旁御間ニ合之品ニは有之間敷候得共、加藤氏江相廻候、左様御承知可被下候、以上

尚々御頼申上候、来ル十六日・十七日、此方様少々御取込之儀御座候ニ付、今日右之段御頼得貴意候、何卒先触等をも認置度、仍而御頼申上候、否御報奉願候、已上
   十三日               加藤太
  伊東様
  三和様
  山田様

城37−2−21・22           
〔包紙〕
「川通
  伊東幾右衛門様
  三和六左衛門様       加藤加藤太
  山田可也様
   御用                」

以手紙致啓上候、寒冷強御座候得共、各様弥御安泰可被成御勤、珎重奉存候、然は此間笠松@相談申来候来ル十八日出役之儀、弥右日限出役いたし度奉存候、付而は各様方之御内被仰合、御一人御出張可被下候、猶又右一件絵図書類等も借用致度、此段御承知可被下候、右之段得御意度如斯御座候、以上
  十月十三日
□□本文之趣致承知候、兼而御承知被下候通、幾右衛門義いまた病中引籠罷在候ハヽ、乍御苦労貴公様へ御出張可被下候、絵図面等は御年番ニ可有御取奉存候、尚宜御相談可被下候、以上  
                     三和
 山田様

以村継致啓上候、春暖之節御座候得共、各様弥御堅固被成御勤、珎重奉存候、然は大垣領安八郡外三郡之内村々惣代共、願書絵図面を以伊尾川通尾州領中村、同郡中村出郷大垣御預り所中須村ニ新規之普請致候由ニ而、添簡を以当役所江出願いたし候、其 御役所江も御同様願出候段申聞候、右は如何御取斗被成候哉、御同様致度候、御勘考否御報被仰下度、此段御相談旁得御意度如斯御座候、以上、
  二月廿五日              四人
 水野郡右衛門様
 棚橋瀬十郎様

□□本文之趣ニ付、御立会場所見分可致□、左ニ付、奉存候様子御治定被仰下□□致度候、以上、
 〔絵図 略〕

城37−2−25           
〔包紙〕
「伊東幾右衛門様       近藤庵之助
 杉村孫蔵様         大沢治兵衛」
御剪紙致拝見候、寒冷之節各様弥御堅固被成御勤、珎重奉存候、然は伊尾川通水開場之内、其 御預所安八郡中須村并尾州領同郡中村・牧村・中村出郷之内、堤土手等新規ニ築立候分之儀ニ付、其御領分八拾九ケ村@差障、当春右村々惣代を以当役所江出願有之、然処右一件未論中、牧村おゐて此節土手数ケ所取繕有之由ニ而、尚又今般当役所江出訴いたし度旨申出候付、為惣代外淵村名主七郎平、釜笛村名主儀助御差出被成、則願之趣承之及挨拶候、追而修理・玄蕃・大内蔵江可申聞候、右御報如斯御座候、以上、
   十月廿二日          山田  可成
                  加藤 加藤太
                  三和六左衛門
                  伊東幾右衛門

  近藤庵之助様
  藤江彦之丞様
  石川孫太夫様
  酒井小源太様
  大沢治兵衛様

猶以杉村孫蔵儀、先達而退役、山田可成江跡役被申付候間、致加除候、以上、

 状箱上書
  大垣               多良役所
   近藤               伊東
   大沢               山田

城37−2−26           
以剪紙致啓上候、寒冷之砌、各様弥御堅固被成御勤、珎重奉存候、然は伊尾川通水開場之内、当方御預所安八郡中須村并尾州御領同郡中村・牧村・中村出郷之内、堤土手等新規ニ築立候分之儀ニ付、当領分八拾九ケ村@差障り、当春右村之惣代之者共其御役所江為致出願置、然処右一件未論中、牧村ニおゐて此節土手数ケ所取繕有之由ニ而、尚又今般其 御役所江致出訴度申出候付、為惣代外淵村名主七郎平、釜笛村名主儀助御差出申候間、御繁用可有御座候得共、様子御聞、宜御取扱被下候様致シ度、右為可得御意、如斯御座候、以上、
   十月廿二日           大沢治兵衛
                   酒井小源太
                   石川孫太夫
                   藤江彦之丞
                   近藤庵之助
  伊東幾右衛門様
  三和六左衛門様
  加藤 加藤太様
  杉村  孫蔵様

城37−2−31           
以村継致啓上候、各様弥御堅固被成御勤、珎重奉存候、然は先達而同役@御掛合置候大垣領村々@御料中須村、尾州領中村・牧村江相掛り伊尾川通水開場、新規掛廻し囲堤并小土手故障願場所見分之儀ニ付、訴答とも申合、大垣領安八郡平村旅宿之積申出候間、来ル八日御直ニ出立、彼地江向罷越シ、着之上得と御相談之上見分可致と候故、御差支も無之御座候ハヽ別段不及御報、右為可得御意如斯御座候、以上、
   三月五日           名和茂利右衛門
                  森川条左衛門
  伊東幾右衛門様
  三和六左衛門様
  加藤 加藤太様
  杉村  孫蔵様
追而得御意候、今般出入ニ付其御役所ニ而御取扱有之、先年之書願御吟味之上、可成丈御持参可被下候、且例年大川通見廻之節御持参之寛政・享和度之大川通取払絵図、并安永度中村囲堤内済ニ而出来いたし、其節之書類、是又御持参可被下候、右一条ニ付、追々御相談可致候間、無御報□被仰合可被下候、以上、

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